七十年活躍した第一回直木賞
受賞作家の、「多才」に迫る---
川口松太郎Vol.1

 川口松太郎について、数回にわたって書いてみたいと思う。

 以前、溝口健二についての連載で、何度か触れた事があるので、ちょっと気がひけるところがあるのだが・・・。

 でも、まったくもって語り足りないところがある。そう思う、のではなくて、何というのかな、体臭がなつかしいような。

 とはいっても、もちろん、生身では何のつきあいもないんだけどね。

 あたり前だけれど。

 『週刊現代』で、佐多稲子について連載していたときの話。

 講談社の編集者と大阪まで海老蔵を見に行ったとき「そう云えば・・・」と嬉しい話を披露してくれた。

 連載中、佐多さんの『私の東京地図』が、二度重版したと教えてくれたのだ。

 文芸文庫だから部数は限られたものだろうが、それでも嬉しい。いい仕事、いい読者に恵まれたなぁと、素直によろこんだ。嬉しかった。

 それで、今度は川口松太郎というのは、突飛すぎるかもしれないが・・・。

偉人が顧みられない世間の非人情

 とはいえ十一歳でキャラメル工場で働いた稲子と、実の親も知らず尋常小学校を出て質屋、洋品屋、印刷屋に奉公した後、十四歳で浅草で古本の夜店を開いた川口松太郎の間には、人の云う純文学、大衆文学という隔てとは別の、より本質的な近さがある、と思う。世代は多少ずれてはいても、隅田川岸、小梅辺りの昏い夜明け、足を懸命に動かして歩いている子供のシルエットが、二重写しになってしまう。

 第一回直木賞受賞者、川口松太郎は、小説だけでなく、劇作家、演出家、脚本家として七十年近くにわたって第一線で活動した。

 佐多稲子もまた、長く一線で活動した。

 『素足の娘』、『くれない』、『樹影』などの作品を残しつつ、共産党から除名された後も、社会主義にもとづく政治活動を続けた。

 いわゆる大衆文学が興隆するのは、関東大震災前後の事だ、とされている。

 この時期に、それまで新聞、雑誌の誌面を占領していた講談筆記が淘汰され、白井喬二、吉川英治、直木三十五、大佛次郎、三上於菟吉らが澎湃と現れたのだった。

 川口松太郎もまたその第一線に立っていたが、彼の場合は、世間に出たのが早い分だけ、その前史、つまりは大衆小説が、未だに受け入れられない時代から、娯楽の最前線へと躍りでる、その変化を身をもって生きるという経験をしている。

松林伯円 「泥棒伯円」と謳われた二代目伯円(1834~1905)は、創作講談で一世を風靡した

 「私の恩人悟道軒円玉が深川の森下に住んでいたのは大正十二年の大地震までで、震災後は浅草の三筋町に移って、悟道軒の面影はなくなってしまったが、その森下時代こそ、江戸ッ子の中の江戸ッ子らしい生活の最後の名残りといっても好かったであろう。/円玉は本名を浪上義三郎といって松林伯円門下の講釈師であった。

 近頃は講釈を講談というようになったが、昔は必ず講釈といい、講談と呼ぶのは田舎者にされていた。(然し、今は私も講談と呼ぶ)松林伯円は小猿七之助や鼠小僧などの講談を作った名人で、単なる芸人ではなく、立派な創作家だった。伯円が現代に生きていたら、大衆作家としても我れ我れなど足元にも及べなかったであろう。

 河竹黙阿弥が伯円の創作講談を脚色上演した芝居は残らず当りを取って、現在でも歌舞伎はその恩恵をこうむっている。原作の尊重されなかった時代だから伯円の名はうずもれて、黙阿弥の名声のみ残ってしまったが、明石の島蔵と松島千太の島千鳥も、鼠小僧の春の新形も、みんな伯円の原作で、黙阿弥は脚色者に過ぎなかったのだ。

 が、時代の波は仕方のないもので、伯円の創作力を記憶するものなぞ今は無くなってしまった。創作講談は世話物ばかりで、主人公に泥棒の多いところから泥棒伯円ともいわれ、全盛期の人気はどんな芸人も及ばなかった。円玉はその伯円の弟子で、初めは松林円玉といったが、後年には自ら悟道軒と称し、体が弱いので芸人をやめ、速記術を覚えて、その頃の新聞雑誌に講談速記の連載を試み非常な大当りを得、大衆小説発達の貴重な温床となった。

 此の事も今は記憶する人も少くなったが、大正中期までの夕刊連載といえば講談速記に決っていて娯楽雑誌の大半は講談速記でうずまったものだ。残念な事には伯円ほどの創作力を持たない為め、何年かつづけていると種がつきて同じ材料の繰り返しになる。其処で、雑誌も新聞も新作講談を思いついて、三流作家に新講談を書かせた。

 その中から初期の大衆小説を形成する作家と作品が生れて、現代の繁栄に至ったのだ。いい変えると円玉は大衆小説の結果的な恩人だった」(『人情馬鹿物語』「紅梅振袖」)

 川口の筆は、委細を尽くしている。「江戸ッ子」の「最後の名残り」から書き起こして、「講談」ではなく「講釈」だと云いつつ、松林伯円の偉大さを語りながら、伯円の脚色者にすぎない(と、松太郎が考える)河竹黙阿弥が記憶されているのにひきかえ、梨園から国文学者に至るまで、誰一人伯円を顧みない世間の非人情・不公平を憤る。

 その伯円の弟子だった円玉は、病弱から芸人として生きることを諦め、速記術を体得して講談筆記の連載を新聞雑誌に掲載して大当たりを取った---大正中期、夕刊連載の華が講談速記だったという話も嬉しい---というエピソードから、多作による講談作者の創作力の減退が生じて「三流作家」---「二流」ではないところが可笑しい---に講談の執筆を依頼した事が、初期の大衆作家を生んだという経緯が描かれている。

 そうして、旧師悟道軒円玉は「大衆小説の結果的な恩人だった」として締めくくるのだが、この「結果的」という言葉の含蓄が、いかにも松太郎的だ。意識せざる、というような意味合いなのだろうが、円玉自身の自己認識と、結果的に残してしまった事のズレに松太郎が敏感なところも面白い。

 と、同時に、引用した文章からも感じとれるように、伯円の血脈を継ぐ円玉の弟子としての自負が読み取れる。

 これからの連載でもたびたび触れる事になると思うが、川口松太郎の面白さは、大衆小説の結構に、自伝的、あるいは私小説的な要素を色濃く盛ってしまう処なのだが、大衆小説の濫觴を論じた一節にもその気味合いが露わになっている。

 大衆小説家で、自伝を書いた人は少ない。長谷川伸、下母沢寛が記憶にある。松太郎は、『生きてゆく』、『飯と汁』など、かなり書いている。

「週刊現代」2012年3月3日号より

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