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長友啓典(ながともけいすけ)は1939年4月、コテコテの大阪、阿倍野区天王寺の旅館「新宿」の息子として生まれた。戦後すぐの小学校の頃は、どこにでもいるスポーツ小僧で日が暮れるまで三角ベースで野球をしていた。地元の文の里中学校に入学して「ラグビー」と運命的に出会う。ラグビーの名門天王寺高等学校に入学して、国体にも全国大会にも出場。ふつう文武両立の名門公立高校を卒業したら、大学でもラグビーを続けるのが常識だが、人とは違う道を見つけたい気持ちがムクムクわいてきて、気づいたら大学の受験シーズンは終わっていた。
上京して、倉庫番、機械の修理工など職を転々。いまで言うプータロー、フリーターの期間が2年。そして「デザイン」とまたまた運命的な出会いをする。以来半世紀、たくさんの雑誌づくりや広告づくりにたずさわる一方で銀座のクラブ通い、食い道楽、ギャンブル道楽、ゴルフ道楽にいそしむ。2009年、70歳の冬に町医者での検診で初期の食道がんが発見され、翌年がん除去手術のために入院。手術は無事に成功し3週間で退院した。
---デザイナーであるいっぽうで「イラストレーター長友啓典」でもあるわけですよね。
長友 あるときは・・・ね(笑)。
---そもそもイラストを描くようになったきっかけはどういうことだったんでしょうか。
長友 中央公論の編集者だった村松友視さんが物書きとして独立するいうときに、「友さん、最初の本はやって」いう口約束をしていて、それで『時代屋の女房』を雑誌に掲載したときに挿絵を描いたんです。さらに本にするときは装丁も全部やったんですが、結局それで直木賞を取りました。
---イラストを描いたのは村松さんの小説ということなんですか?
長友 その前に『話の特集』で田中小実昌さんとか色川さんとか、いろいろなひとの文章に挿絵は描いてました。あのころは面白がって、なんでもやろうということでした。でも、そもそも山城(隆一)、早川(良雄)といったデザイナーたちは、絵も描けば写真も撮る、さらにはコピーも書いたりして、ひとりで何役もやってた。これがいくつもに分かれるようになった諸悪の根源は大手広告代理店なんです(笑)。分けたほうが金が取れるんです。広告は「スペース売り」やから、デザインはサービスなんです。でも、それをひとりでやってるとありがたみもなにもないから、分けてやるとものすごい値段がつくことになる。
---かつては編集者がデザイナーを兼ねていたこともありますからね。
長友 最初はそうでした。ボクも編集者から活字の行間が何ポイントでとかいうようなことを教わったくらいです。何字何行組みの文字面をスッと見ただけでわかってしまから、「このひと見ただけでわかるんや!」って尊敬したくらいやもの(笑)。一種の名人芸みたいなものです。