鉄道マニア・内田百閒の嗜んだ、
無目的で乗車する真剣な「道楽」
東京駅Vol.3

vol.2 はこちらをご覧ください。

 東京駅を、あるいはそこから出発する列車を、もっとも愛した作家、といえばやはり内田百閒ということになるのだろう。

 何しろ、何の用事もないのに、特急の一等席を買って大阪まで行き、一泊してそのまま東京に戻ってくる、というような事をしていたのだから。たしかに鉄道マニアで、とにかく列車にのっていればいい、という人は多くいるのだけれども、百閒はその類、つまりはマニアの嚆矢とも云うべき存在であろう。

 ただ何の目的もなく列車に乗るという酔狂が、酔狂の度合いを超えて、仕事よりも、暮らしよりも真剣に検討し、真剣に実行すべきもの、かぎりなく高い水準に引き上げられた、道楽として試みられているのだ。

切符や宿を用意する「お供」がいたからこそ

「駅長室へ行く間に考へた。各等売切れだつたら、山系の三等の特別急行券は頼んで見るだけ無駄であらう。『はと』と『つばめ』は本体は二等急行と云ふべき編成で、一等は一輛だが二等は五輛つないでゐる。然るに三等はその半分の二輛半しかない。だから三等はきつとすぐに満員になり、一旦売り切れたら後からの取消しなぞは滅多にないに違ひない。

 たまにあつても手軽にそれを手に入れる事は六づかしいだらう。さう云ふ、無理にきまつた事で駅長室を煩はすのはよくない。面倒だから、ヒマラヤ山系の国有鉄道職員である特権は利用しない事にして、普通の乗客として、切符が買へるものなら、一等に乗せてしまはうと決心した。お金は大丈夫である。

 しかしさう云ふ事にすると、帰りの私自身の一等寝台はいよいよ影が薄くなる。況や帰りもヒマラヤ山系を一等客として尊敬するなぞ思ひもよらない。第一、帰りは帰ると云ふ用事があるのだから、三等で沢山であり、無駄遣ひは避けなければならない。行きは一等、帰りは三等、一栄一落これ春秋で大変結構な味がする。/さう云ふ腹をきめて駅長室へ這入つて行つた。

 日曜日だから、駅長は出てゐない。助役さんの様な人に頼んで見た。/『今日の第三列車の一等を二枚、お願ひ出来ませんでせうか』/『少少お待ち下さい』/すぐにその場で電話をかけてくれた。/一寸待つたら、どこからか返事が来た。/『御座いました。今、書附を書いて差し上げます』/傍の長椅子で固唾を嚥んでゐた私は、ひとりでにお尻が浮いた程よろこんだ。/書附は山系が請取つたから、何が書いてあつたか、よく知らないが、それを持つてもう一度出札口へ行けば切符を売つてくれる筈である。/駅長室を出て、外を歩きながら、/『よかつたなあ』と私が云つた。/『はあ』と云つたきりで、山系は全く要領を得ない。/ところでもう一度切符を買ひに行くには、又入場券を買はなければならない。

 さうでなければ外の道を高架線に沿つて丸ノ内一丁目のガアド迄行き、それから呉服橋へ出て、外濠の縁を八重洲口まで引き返す事になる。大変な道のりで、ぐづぐづすれば列車に乗り遅れてしまふ。/入場券を買はなければならないと云ふと、山系は考えて、その必要はないでせう、僕が一人で行つて買つて来るから、先生はここに起つて待つてゐろと、さつきと同じ様な事を云つた」(「特別阿房列車」『阿房列車』)

 ヒマラヤ山系と記されている人物は、国鉄の雑誌を編集している平山三郎。平山氏が切符の手配から、酒や食事の用意、宿屋の斡旋など万事を買って出てくれるからこそ、百閒は快適きわまる無用の旅を楽しむ事ができるのである。

 新潮文庫に収められているものだけで、『阿房列車』から、『第二』、『第三』と編まれており、もちろん百閒の文章の冴えは流石のものであって、どれを読んでも飽きることはないのだけれども、やはり、どうしても平山氏には同情の念を禁じえない。もちろん、文庫三冊分の旅の体験、百閒との絆は重いものである事は、否定できないにしろ、それでも、やはり、身勝手きわまる先生のふるまいに、我慢ならない時はなかったのであろうか。

 漱石門下の一員として、百閒は芥川龍之介と交流が深かった。『亀鳴くや』など、芥川の面影を伝える文章をいくつも書いているが、芥川を「野口」という作家として描いた『山高帽子』は、鬼気せまるその容貌を伝えて、間然するところがない。

「帰る時に、途中で公衆電話をかける用事があつた。その料金の白銅貨を私は持つてゐなかつた。すると野口は急に起ち上がつて、変な足どりで梯子段を下り出した。私は、はらはらしながら、しかし手をかす事も出来ないので見てゐると、間もなく彼は片手に一ぱい銀貨や白銅を握つて帰つて来た。蟇口から摘まみ出す事が出来ないで、中身をそつくり手の平にうつして来たらしい。

 さうして起つたなりでその手を私の前に差出すのだけれど、その間も彼はぢつと起つてゐる事が出来なかつた。ふらりふらりと前後左右に揺れて、その度に足を踏み直した。彼の手の平には、十銭や五十銭の銀貨と混じつて、五銭の白銅貨が一つあつた。それを彼は摘まみ出さうとしてゐる。

内田百閒 筋金入りの"鉄ちゃん"だった百閒は、仲間と「桑原会」を結成して、琴も楽しんだ

 しかし彼の指先は、彼方此方に游いで、中中それに触れなかつた。/私は野口の様子が普通でないと思つた。/さうして非常に心配になつた。/しかし、彼がその二日後に自殺するとは思はなかつた。/麻睡薬を少しづつ過量に飲んで、その最後の日の準備をしてゐたのだとは思はなかつた。/その知らせを受けた時、私はいきなり自分の部屋に這入つて、後の襖を締め切った。/『野口は自殺した』と私ははつきり考へようとした。/しかしそれは私には出来なかつた。/どうして自殺したのだらうとも思はなかつた。/ただ私の長い悪夢に、一層恐ろしい陰の加はつた事を他人事のやうに感じただけだつた」

 精神に病いを抱えた二人の文学者の人生は、結局のところ、かなり対照的なものになった。芥川の死後、敗戦前後まで百閒の文学的キャリアは厳しい足取りを強いられたが、平和が回帰するとともに、文運は隆盛に向かう。

 昭和二十三年には、『サラサーテの盤』。二十四年には『贋作吾輩は猫である』、二十五年には『実説艸平記』、同年十月の特急「はと」による大阪行から阿房列車の旅がはじまっている。

「週刊現代」2012年2月11日号より

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