皇居と直結---日本の玄関として
「歴史」を背負う鉄道駅の物語
東京駅Vol.1

 東京駅が変わっている・・・と気がついたのは何時の事だったか。

 いつも、そんなに注意深く見ているわけではないけれど、たしかに変容していると、そう思ったのは。

 東京駅は、ここ数年、ずっと工事をしている、そういう認識が確固としてある。

 品川駅もかなりドラスティックに変わった、というより変わりつづけているけれども、それは東海道新幹線が停車するようになったことと、港南側の大規模な都市開発が行われたことで面目を一新したのはわかるのだけれど---さらに、田町と品川の間に、新しい山手線の駅を作るという計画も具体化している---、東京駅の場合は、少し意味あいが違う。

 品川駅は大きな操車場をもつ、客車、貨車の双方を抱えた鉄道の一大基地というイメージは、ずっとあったけれども、華麗さとか、スマートさとは縁がない、むしろ駅構内に一時は十ヵ所以上あった、常盤軒が象徴するような、武骨な、まさしく中野重治の名作『雨の降る品川駅』を彷彿とさせるようなたたずまいが、一転してきらびやかになってしまった、まったく別のものになったという印象があるのだけれど、東京駅は、あくまで東京駅であって、その輝かしさは、そのはじまりから今日まで変わってはいない。

 たしかに大東亜戦争下、昭和二十年五月二十五日の、B29の焼夷弾による空襲で、東京駅は大打撃を受けた。

 駅舎は、二つのドームと三階のほぼすべてが焼失した。二階にも被害が及んでいたし、プラットホームにも延焼している。

 にもかかわらず、東京駅は滅びなかった。

 昭和二十二年、東京大学の武藤清教授は、損害の大きかった駅舎の三階部分を取り除き、二階建てに改修する計画を提議した。

 武藤は関東大震災の経験から、耐震構造の研究に取り組んできた。その成果は、霞が関ビルなど超高層建築の実現に大きな寄与をしている。

 三階をすべて解体してしまったのも、またドームから三角屋根にしてしまったのも、戦後すぐの経済、物資の事情からすれば、きわめて合理的な判断だったといえるだろう。

特別室の原敬と二等車の三浦梧楼

改修中の東京駅 徐々に姿を現しつつある、赤レンガで有名な駅舎は、今年10月に全面開業予定だ

 けれども、昔日の、絢爛な伽藍を戴いた、三階建ての壮麗な駅舎を見慣れていた人々は、どのような感慨をもって、武藤のおこなった改修をうけとめたのだろうか。

 たしかに、旧駅舎は、ナポレオンのアンピール様式を思わせる、つまりは「やりすぎ」という感じがあったのだけれど、そのバカバカしさこそが、豊かさと思わないでもない。

 いずれにしろ、東京駅は、今年中に竣工することになっている。丸ビル、新丸ビル、工業倶楽部などと、どのような景観を---伽藍をふくめて---見せてくれるのだろうか。

 大正三年十二月十四日、東京駅は竣工した。

 十八日には、東京駅開業式典が開催され、祝賀アーチが建立された。

 第一次世界大戦劈頭、青島のドイツ軍要塞を陥落させて、凱旋した神尾光臣将軍がそのアーチを潜った。

 この日から、東京駅はまさしく日本の玄関となった。かつて「玄関」であった新橋は後景へと退いていく。

 東京駅の特殊性は、何といっても、皇居と直結している事だろう。凱旋してきた軍人、世界各国からの賓客を、まっすぐに皇居へ、日本の中心に結びつける構造になっている。その政治的な性格は現在に至るまで、維持されている。

 閑話休題。

 三浦梧楼という人物をご存じだろうか。

 日本外交史の一大汚点として知られている、閔妃暗殺事件を起こした人物である。

 当然ながら、後世の評価は厳しいが、在世当時は、長州出身にもかかわらず、元老山縣有朋に徹底して逆らった政客として、一部の人気を博していた。

 大正四年十一月六日、大正天皇は即位大典のため、東京駅から京都に向かった。妊娠中の皇后は同行しなかった。

 大典に参加する、官吏や議員たちはみな、かなり苦労したという。枢密顧問官である三浦も例外ではなかった。

「大典参列の為めに、京都に行くことになつたが、我輩には秘書もない。侍史もない。我身に随ふものは、唯我身の影ばかりだ。身体一貫で汽車に乗るには、何うすれば好いと云ふ便宜もない。ソレで乗車券を取りに遣つたが、モウ一等の切符も、寝台券も、売れ切れて、漸く二等の切符を繰合せて呉れた。

 斯んなことは一向勝手が知れぬ。/『二等でも、三等でも構はぬ。生きた貨物を運搬して呉れさへすれば、ソレで好い。』と言つて、出掛けて往つた。ところが二等室は満員で、腰も掛けられぬ始末だ。

 多くは衆議院議員であつたが、其中に古島一雄、添田飛雄太郎の二人だけ知つて居つた。ソレが老人の事だからと言つて、座席を開けて、漸く腰を掛けさせて呉れた。/其内に原が乗つて居ると聞いたから、ソコへ案内して貰つた。

 ソレは後方の特別室で頗る広い。/『此れは広くて、楽だ。乃公の所は、二等室の酷い所で、腰も掛けられぬ。』/と言ふと、/『ソレでは此処へ来ては何うです。』/と言ふから、/『左様出来れば、甚だ仕合せだ。』/と言つて、席を此れへ移した。外には高橋光威の居るばかりで、誰も居らぬ。

 此れは誠に好い機会だと思つたから、段々説き始めた。/『君は何う思ふか知らんが、我輩は如何にも不安心で堪らぬ。欧洲大戦の仲間入はする。今は支那とも外交談判を開いて居るが、迚も斯う云ふことで往けるものではない。是非とも根本の国策を樹立し、外交も、軍事も、財政も、此れを基礎として実行すると云ふことが、甚だ必要だと思ふ。

 我輩は此国是を定めねばならぬと思つて、屡々元老に説いたが、中々用心深くて、迚も遣り得ないのだ。此上は軍事、外交、財政此三策に就て、君と加藤(高明)、犬養、此三人が同一の態度を執ると云ふことにするの外、他に道はなからうと思ふ。』/と言ふと。原は早速此れに同意した」(『観樹将軍回顧録』)

 これが、大正政治史に名高い、原敬、加藤高明、犬養毅の三党首会談の発端になるのだが、ほとんど手ぶらで何とか列車に乗った三浦と、一人で大きなスペースを確保している、原敬の対照が面白い。

「週刊現代」2012年1月28日号より

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