ベン・ジョンソンはいまも怒っていた
あの人はいま オリンピック選手篇

カール・ルイス セルゲイ・ブブカ 大古誠司 宗兄弟 森下広一 塚田真希ほか
週刊現代 プロフィール

「発端は、東京の気功師の奥さんから届いた手紙でした。『選手の疲労回復やケガの治療に気功を利用してみたらどうか』という内容で、実は弟が先に興味を持ち、会いに行ったんです。戻ってきた弟から『兄貴、気功は面白いよ』と電話をもらい、すぐに私もその先生のところに行きました。

私たちは一卵性双生児だから、気功の能力は二人とも持っていることがわかった。でも弟はその後気功への興味を失い、私はどんどんのめり込んだ。それも性格の違いでしょう。弟は慎重な人間で、私はアバウトですから(笑)」

ある陸上部監督の死

森下も宗兄弟も、現役を退いた後は後進の指導に身を転じた。一方で、「生涯一ランナー」を貫いている選手もいる。

ソウル五輪女子マラソン日本代表の浅井えり子(52歳)だ。

「当時、私は実力がなかったので、ソウルの25位という結果は個人的にはよくやったと思っていました。しかし、帰国すると『浅井惨敗』とスポーツ紙に書かれていた。『日本人の中では一番だったのに』と非常に悔しい思いをしました」

悔しさをバネに猛練習を積んだが、4年後のバルセロナ五輪に出場することはできなかった。

「『若い選手に負けたくない』という思いばかりが強くて、最後まで結果がついてこなかった。所属していた日本電気ホームエレクトロニクスの佐々木功監督も焦っていました。『何で結果が出ないんだ』と、二人でずっと悩んでいました」

負けるたびに「そろそろ引退か」と囁かれ、自分で自分にプレッシャーをかける日々。だが、バルセロナに落選したことで、逆に気持ちが吹っ切れたという。

「徐々に調子が上向きになり、'93年3月の名古屋国際で2時間30分の壁を初めて突破し、4位でゴールすることができた。マラソンはつくづくメンタルなスポーツだと思います」

浅井のマラソン人生は、佐々木監督あってのものだったという。

「素質も運動神経も普通レベルで、私の大学時代を知る人には『まさか浅井さんがオリンピックなんて』とよく言われました。そこまで成長できたのは、すべて佐々木監督のおかげです」

翌'94年3月の名古屋国際。浅井はついに女子国内3大マラソンで悲願の初優勝を果たす。

だが、悲劇はその直後に訪れた。13年にわたって浅井を支えてきた佐々木の皮膚がんが判明し、余命宣告を受けたのだ。二人はそこで決心をする。'94年9月、入籍して結婚式を挙げた。

「あの人は日々の暮らしの中でも『どうすれば速く走れるか』しか考えていなかった。結婚後の会話もマラソンばっかり。でも、彼も私も他のことを我慢してマラソンに没頭していたわけではなかったので、そんな生活も苦じゃなかった。