中野重治のがん闘病記は、
稲子の筆力で恋愛小説となった
佐多稲子Vol.10

vol.9はこちらをご覧ください。

 昭和五十四年七月、中野重治は東京女子医科大学病院に入院した。妻であり、女優としても活躍していた原泉が、中野の顔が黄色になっている事に驚き、病院につれていったのである。

 六月に白内障の手術のため、駒込病院に入院した直後だったが、入院先での診断は、胆嚢ガンであった。

 女優としてテレビの仕事を抱えている原は、毎日、病院につめる事は出来ず、結果として佐多稲子を中心とする、中野の友人、取り巻きが、代わりばんこに病院につめる事になった。

 『夏の栞---中野重治をおくる---』は、中野の闘病生活と、その思い出を稲子がつづった著作である。昭和五十七年一月から十二月まで『新潮』に連載された。手許にあるハードカバーは実に十六刷である。沢山は刷らない、純文学の本としては、かなりの読者が手にとった事になる。佐多としても、おそらく、『素足の娘』につぐ、ベストセラーということになるだろう。かくも多くの読者を獲得したのは、この本が闘病記録を超えた、ユニークな恋愛小説になっているためだろう。

大作家二人が送る 病床での甘美な時間

 「その日中野は夕食の粥も、少量ながらお代りをし、食後のメロンも食べた。/『あがれてよかったわ』/と、私は自分が救われるように云った。中野も、自分の今日食べられたことを、やはり格別におもったらしい。/『こんなに食べるところを、原に、見せてやりたいね』と云った。それは原さんのこの頃からの嘆きをいたわるものに聞えた。

 中野は尚、それにつづけた。/『食事がすすむと、こんちくしょう、とおもうね。誰にむかって、というのでもないが』/『それはよくわかるわ。本当に、こんちくしょう、とおもって下さい』/それだけを云うと、あとを避けるように私はベッドを離れた。/仕事から戻った原さんは、白っぽい顔色になり、尖がった表情をしていた。

 私はロビーで、中野の入院を聞いて馳けつけた友人に応待していた。松下さんと健造も来合せている。原さんは見舞客の挨拶にも固い表情のまま、えっ、えっ、と切るように答えた。自分の留守中の病人と、テレビ局での仕事と双方にかけた神経が、屈折しつつまだ重なり合って、彼女の身体の上にぴーんと張っているように見えた。(中略)

『今日は、お粥のお代りをしたの。こんなに食べるところ、あなたに見せてやりたい、って』/しかし私の予想は、原さんの今の神経で逸らされた。彼女は、ぱっと云った。/『稲子さんがくると、いつも張り切るんだから』/彼女自身としても何かに叩かれて、咄嗟に発したようであった。私は原さんに反応せず、そのまま、中野のあとの言葉を伝えた。/『食事がすすむと、こんちくしょう、とおもう、って』/それには原さんは何も云わず、着更えようとするワンピースのホックを、ぱちっ、ぱちっとはずした。

 彼女はもう、中野の今の言葉を胸においているにちがいなかった。私はそおっと病室を出た。見舞客は帰り、松下さんと健造がいたけれど、私は黙って腰をおろし、煙草に火をつけた。松下さんが健造に云っている。/『今度の本の題のことで、わが生涯と文学、というのはどうでしょう、と僕が云ったんですが、中野さんは、生涯、というのに一言ありました。自分から、生涯、と云うことに抵抗があるようです』/それは中野の感覚だ、と同感しながら、しかし私は何も云わず、さっき中野が、こんちくしょう、と挑んでいたのを心の内に追った」

 文中の「健造」は、佐多の長男である窪川健造。松下は、中野の全集を担当していた編集者の松下裕である。妻である原と、佐多の間の、古くからの知己であるからこその、微妙かつ、深刻な葛藤が、この闘病記を恋愛小説として成立させている。「稲子さんがくると、いつも張り切るんだから」という台詞は、この作品の核心をなすものだろう。

 佐多は、なり行きで窪川鶴次郎と結婚したが、ごく初期を除けば、結婚生活は幸福なものではなかった。この連載でも言及したように、窪川は田村俊子と愛人関係にあったし、また、文筆家としての窪川は、その存在感は、到底、佐多に及ばなかった。夫を立てなければならない、と思って筆を捨て、夫の口述筆記を務めたこともあったが、窪川の筆では家計を到底支えられず、やはり稲子が原稿を書くしかなかった。

 稲子の作品を愛する人は、誰しも、夫が窪川ではなく、中野だったら、と想像するだろう。稲子自身も、何度もそう思ったのではなかったか。『キャラメル工場から』を書かせて、稲子を作家にしたのは中野重治である。中野自身、稲子を発見したことを、生涯の誇りとしていた。その交流は文学にとどまらず、政治活動においても続き---戦前の共産党活動への参加と転向、戦後の再入党、共産党からの除名をへての『日本のこえ』の結成と、そこからの離脱まで、すべて中野と歩みを一にしてきたのである。

中野重治 中野(右)と妻で女優の原泉。原と稲子の女性二人に看病されて、中野は逝った

 「病室は広い窓があって明るかったが、その光線を避けて病人の顔の周囲には、いつものように紐を張ってタオルが掛けてある。/その紐の一端が何かのはずみで解け、中野の顔の上に垂れた。中野の顔に当るのでもなかったが、真上に垂れ下がった紐だから、私は手をのばしてそれを上にあげた。眠っているかと見えた中野にその気配が感じられたらしい。/『稲子さんかァ』/と、弱く、ゆっくりと中野は声を発した。

 私の返事するまもなく、原さんがそれをとらえ、ぴしりと聞える調子で云った。/『あら、稲子さんってこと、どうしてわかるんだろう』/それは以前に原さんがそう云ったことのある言葉とまったく同じ文句であった。中野の脚の冷めたいのを、さわってみて、と原さんが云い、私がそれに従ったとき、それが私だというのに中野が気づいた。

 そのとき原さんは今と同じことを云ったのである。原さんの、どうして、というのに私は答えようがない。私にもそれはわからないのだ。私としては、病人の神経の、弱っているようでいてどこかに残る敏感さか、とおもうしかなかった。今も、中野は原さんのそう云ったのを聞き取った。原さんの言葉に対して中野が答えたのである。/『ああいうひとは、ほかに、いないもの』/そう聞いた一瞬、私は竦んだ。それは私の胸で光りを発して聞えた」

 中野が死病にとらわれた事は、稲子にとって大きな禍であったが、しかしまた、病床に侍る時間は甘美なものだった。その時間は、二人の大作家の交歓の大団円だったと云えるだろう。

 中野は昭和五十四年八月に死んだ。

 佐多稲子は平成十年十月、九十四歳で亡くなっている。

週刊現代2012年1/21号より

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