読者からの訴えで「原爆」を書いた。
そこに隠された、長崎への負い目
佐多稲子Vol.9

vol.8はこちらをご覧ください。

 昭和四十七年、佐多稲子は『樹影』により、野間文芸賞を受賞した。

 ある時、佐多は未知の読者から、手紙をもらったという。「長崎出身なのに、なぜ原爆をかかないのか」と非難するものであった。長崎は、佐多の故郷ではあるが、彼女自身は被爆していない。広島における大田洋子のように、被爆経験を小説に昇華した作家はいる。そういった書き手の存在を頭に入れれば筆を執る事を逡巡するのは当然の事だろう。しばらく逡巡した後、被爆した画家池野清(作中での名前は麻田晋)に触れ、昭和三十六年、短編「色のない絵」を書いた。それから九年後、昭和四十五年に長編小説『樹影』が執筆されたのである。同作は、佐多の作品のなかでも、もっとも大部なものである。

「いっそ、被爆者であったほうが・・・」

 「ここまで来るうちにすでに数体の屍体に出会っていた。坐したまま真黒に焼けてようやく男らしいとだけ判別されるのや、全身焼けただれてキューピー人形のようにふくれた屍体があった。唇が裂けて異様に面変りした女がふらふらと歩いてくるのにも出会う。麻田晋はここへ来て始めて昨日の空襲の実体の中に立つのであった。製鋼所の同僚も気づかわれたが、麻田はとにかく三菱兵器大橋工場へ甥を探しに行かねばならぬ。彼はもっと激しい惨状の中へ踏み込んでゆくのだということさえ考えつかなかった。

 浦上駅前の黒々とひろがった焼跡で、市内電車が半分焼けたままでぽつんと立っていたが、ふっとその電車の破れた窓ガラスに麻田の目が引きつけられた。割れ残りのガラスにぴたりと張りついているものが異様だった。それが小さな蛙の死骸だとわかったのは一瞬のあとだ。どこからどう吹きつけられてこの電車の窓ガラスに張りついたのであろう。爆風に飛ばされてこの電車の窓ガラスに張りついたまま黒く焼けている蛙の死骸であった。

 歩いてゆく先き先きで人間の屍体に出会う異常な感覚の中で、破れガラスに張りついた蛙の死骸がむしろ妙に生々しく気味わるかったのはおかしなことだった。やがて麻田は、ここが爆心地などということも念頭になく、松山町から山里町へと焼跡の崩壊の中を渡って行った。もうここでは二十人、三十人とかたまっている屍体が、歩いてゆく先き先きにあった。焼け崩れた電車のそばにひとかたまりになった黒焦げの屍体は、あの瞬間にこの電車にいた乗客であろう。

 一夜明けて、まだこの焼けあとにうずくまる負傷者の数も少くない。倍ほどに顔がふくれ上っているもの、唇がだらりと下がっているもの、横になったまま動けぬもの、それらの人間の上に強くなった陽が照りつけていた。牛も馬も犬も焼けて転がっている。何とも云えぬ臭気のたち込める中で、母の死体のそばに小さな子の死体も手足を突張らせていた。麻田晋はその小さな死体に手を合わせたのを覚えている」(『樹影』)

 長崎で被爆した作家林京子は、佐多からさまざまな好意を受けたという。

 「一九七五年に『祭りの場』が発表されましたとき、佐多稲子、と差し出し人の名がある小包が届きました。堆朱のペン皿と揃いの硯箱が、柔らかな和紙と包装紙にくるくる、何気なくくるんであって、おめでとうございます、とカードが添えてありました。活字でしか接したことのない大先輩からの贈り物に、私は単純に喜びました。氏の思いはもっと深くにあったようです。/なぜならば佐多稲子氏の故郷も長崎です。被爆はされていませんが、故郷の地と人びとが受けた傷は、氏の心に、癒されない苦痛を刻んだようです。/『佐多稲子全集』---講談社---のエッセイ集に『長崎の傷痕』があります。ケロイドの跡を残す福田須磨子さんの『われなお生きてあり』にふれた後で"長崎が故郷だから、長崎の傷痕に対して私の感じ易くなっているのは当然なのだ。

 その当然の感じ易さを強いられているということが、私の負いめにさえなっている。これが腹立たしいなどと言えば、福田須磨子と多くの被爆者から嘲笑われるかもしれない。"とあり、もう一つの負い目として、/"そこが故郷だから、昭和二十年八月以後の長崎を書かねばならぬ、と、求められもし、自分でもそうおもうことなのだ。"と厳しく、自身と故郷に対している。/また『長崎の非情』では、"ここは私のふるさとだから、私の親しかった友がこのかたわらに眠るから、その風景が私の心に沁み入る。"とも。/"ここは私のふるさと"といえない私は、同郷の先輩から頂いたハガキを読み返していますが、昭和五十四年の一葉には、"十二月はじめテレビの用事で長崎に行くことになりそうで、やはりそれを喜(七三つ)んでんでおります。"と育った地への旅を、心待ちにしておられる。

オランダ坂 稲子はオランダ坂のある長崎市生まれだが、各地を転々とし故郷には帰らなかった

 一方、同じ年のハガキには、"十二月にテレビ長崎の用事で長崎へ帰りました 娘を同道、はじめて彼女に長崎を見せました。"と。/二つのハガキの、言外の思いに胸がうたれるが、被爆地長崎を故郷とする個人の佐多稲子と、作家の心が揺れ動いていて、いっそ、被爆者であったほうがどれほどお楽だったろうか、と私は思うのです。二つの思いがきしみあった作品が『樹影』で、八月九日への逡巡と作家の姿勢を私は感じます(中略)同席できたのは七、八回でしょうか。

 目の内にあるのは、何かの賞を受けられたときの、後姿です。長崎県人会でお祝いの会が開かれて、新宿の雑踏を会場まで五、六分、歩くことになりました。いつものように和服姿で先を歩かれていたのですが、いきなりお祝いにもらった花束を、ひょい、と肩にかつがれたのです。傷みやすい花を持って人ごみを歩くには、合理的な場所なのですが、意表を衝かれました」(「追悼 佐多稲子」『群像』平成十年十二月号)

 「いっそ、被爆者であったほうが」という林の言葉は、いささかエキセントリックではあるけれど、幾層にも折り畳まれた、佐多の屈託、負い目、疼きを、見事に曝露したものと云う事が出来るだろう。

 佐多稲子は、「故郷」を持たない作家だ。長崎に生まれたが、十一歳で故郷を去り、以後、東京の場末を転々とし、作家となった後は、中国や南洋を転々としている。その生涯の、そして作品のあり様は、近代以降の日本人のほとんどが体験した、移動と流浪の反復を辿ったものだと云う事が出来るだろう。

 にもかかわらず、佐多が長崎を舞台として被爆をテーマとした小説を---しかも二度にわたって---描いたのはなぜなのか。林の文章からは、長崎への訪問を心待ちにする佐多の姿が浮かんでくるが、実際の処、どうなのだろうか。『樹影』から受ける印象は、なかなかに一筋縄ではいかないもののようにも、思われる。

週刊現代2012年1/7・14号より

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