【番外編3】源平合戦のさなか、清盛は"謎の旅"に出る---九州・秘密の「宇佐神宮」。大分には温泉より大事な"意味"がある

 先週発売された書籍版『経営者・平清盛の失敗』は、皆様のおかげで好調なスタートをきることができました。ありがとうございます。

 さて、今週も書籍版には掲載できなかった「番外編」をご紹介します。

"謎の旅"をくりかえす平清盛

 1180年、平清盛は不可思議な行動をとっています。

 1180年といえば、その前年に「治承三年のクーデター」により平家が政権を掌握した結果、「源頼朝の挙兵」などがたてつづけに起きた年で、平家にとっては激動の一年でした。

【1180年(治承4年)の動き】
   2月 安徳天皇の皇位継承が決定
   4月 以仁王、平家追討の令旨を下す
   5月 以仁王、源頼政、宇治で戦死
   6月 福原京への遷都
   8月 源頼朝、挙兵し伊豆国目代・山木兼隆を討ち取る
  10月 平家軍総大将・平維盛、富士川の戦いで武田信義・源頼朝に敗北
  11月 清盛、都を京に戻す

 このように、治承・寿永の内乱(源平合戦)の火ぶたが切って落とされ、まさに世の中が大きく乱れようとしている最中のこと---清盛はなぜか安芸国(広島県)の厳島神社、そして豊前国(ぶぜんのくに。福岡県東部-大分県北部)の宇佐神宮まで参詣の旅に出ているのです。

 それも、源頼朝が挙兵した直後の8月下旬、そして富士川の戦いで平家が大敗を喫した10月には約1ヵ月間に渡って厳島と宇佐をめぐっています(その間の9月下旬にも高倉上皇を伴って厳島神社に参詣しています)。

 平家の一大事に、清盛はなぜこのような行動をとったのでしょうか?

 のちの世の人々は、
「奢り高ぶっていた清盛は、源氏ら反乱軍を過小評価していた」
「戦いに負けそうだったので神仏にすがろうとした」
などと好き放題に解釈しました。

 しかし、それは「平家=奢れるもの、臆病な敗者」という先入観にもとづいた歴史解釈です。

 清盛が平家の長として見せてきた決断力・先見性を前提とすれば、この"謎の旅"にも何か隠された意図があった、と考えるべきではないでしょうか。

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