「総力戦」の呼号---女流作家は、兵士の苦しみを訊き文字に託した
佐多稲子Vol.8

vol.7はこちらをご覧ください。

 昭和十二年七月七日に勃発した盧溝橋事件以降、「総力戦」の呼号の下、戦時色が国民生活のすみずみまで浸透していった。

 文学者たちも例外ではなかった。翌十三年九月には内閣情報部が企画したペン部隊が組織され、菊池寛、瀧井孝作、白井喬二、石川達三、丹羽文雄、横光利一、林芙美子、吉屋信子らが参加した。

 佐多稲子も、昭和十六年六月の満州行を皮切りにして、同年九月には朝日新聞の企画による戦地慰問に林芙美子、横山隆一らと共に参加している。翌年、陸軍主催の戦地慰問に真杉静枝とともに行った後、徴用されて林芙美子、小山いと子らとともにスマトラ等の南方占領地を訪問している。

 ペン部隊は、作家、文学者のみでなく、マスメディアの「戦争協力」を象徴する存在として批判されてきた。けれど当時の、日本が置かれた困難な状況の下で、作家たちは一方的に迎合したのではなく、何らかの貢献をしたいと現地に赴いたのではないか。

 佐多稲子の『時に佇つ』「その四」は、林芙美子とハイラルの郊外の守備隊に赴いた一夜を描いた掌編である。二人の女流作家は、兵士たちの悩み、苦しみを、無力感を覚えながら訊いている。

女たちが戦地で覚えた「安堵」と「呵責」

 「中隊長自身の話も同じ過程をたどった。幹部の辛さは泣きたいときに泣けぬことであり、斥候に出た兵隊が泣いて帰ったときの辛さ、小隊長を戦死させたときの辛さ、という話に始まったが、次第に、いちばん悲しかったことはなんだ、と誘導し、『内地』へ対して云いたいことを云え、と挑発的になり、最後は、故郷の女の心変りが兵隊の士気に大きく影響する、という話をして、/『な、お前たちの中にも、二、三人はいるだろう』/と、さ、打ちまけろ、という調子の高声になった。(中略)兵隊たちは女の心変りを打ちまけはしなかったが、『内地』の人間への不満を吐き出していた。

 それはここの自分たちの辛さに、もっともっとつながって欲しい、ということにつきていた。/私たちは朝六時にはここから帰る身分であった。帰れる、ということがここの兵隊との決定的な違いであった。それは私にうしろめたさを感じさせた。出立まで少し休め、ということになって別のえんがいへ女二人は案内された。懐中電燈で足元を指し示されながら二人は山の途中で用を足した。

 案内してくれている小柄な、人の好げな兵隊は、女二人がしゃがんでいるのにも頓着なしに、前日はこの山の向うあたりから撃ってきた、と話しかけた。私と連れは自分たちに当てられたえんがいで横になったが、今夜の話が心に残って眠れはしない。外がやがて白みかけたとき、銃声が二発聞えた。夜明けによくある、と聞いたのをおもい出し、このとき私の腹部がぐるっと廻った。それは恐怖の感覚であった。もう五時半、外では兵隊が食事の用意をしているらしい。(中略)列が動き出す。私の馬もつづいて私を運ぶ」

 自分たちが「帰る身分」であるという事に安堵しながら、呵責を覚えている処に、けして「戦争協力」という単純な概念では裁断できない、文学者としての倫理が見てとれる。

 「ペン部隊」に参加した作家のなかでは、石川達三や丹羽文雄が優れた小説を残しているが、もっとも耳目を集めたのは、林芙美子であった。林の「恋人」と噂された毎日新聞の記者、辻平一が書いている。

 「ペン部隊は、海陸の二班、女性は吉屋信子と林芙美子のふたり。吉屋さんは菊池寛を団長とする海軍班、林さんは久米正雄が団長の陸軍班に所属した。『ペン部隊員』は、各新聞雑誌に原稿を書く契約をした。社の学芸部長は久米さんで、毎日では現地報道文を吉屋さんに依頼した。(中略)芙美子の心持では、前年の南京行のこともあったから、当然自分のところに相談があるものと思っていたのに、それがなかったので、心持が納まらなかった。これは間もなく二つのことになって現われた。

 一つは出発に先だち、『サンデー毎日』と『週刊朝日』から巻頭小説を頼まれていたのに『週刊朝日』には書き『サンデー毎日』には書かないで大陸にさってしまった。いま一つは上海へ渡ってから男性の文士たちが自由行動をとったから、林芙美子も単独行動をとり、稲葉部隊について従軍、途中で追いついた朝日のトラックに乗って、漢口への一番乗りをし、今度は朝日が報道班員の『殊勲甲』と花々しく報道した。

 久米正雄団長は、団体として派遣された芙美子が、単独行動をとったことに対しひどく非難したのであるが、芙美子の決心のなかには、彼女をえらばなかったことに対する反感も、ひそんでいたかもしれない(中略)林さんは漢口一番乗りですっかり人気ものになり、朝日主催で各地で従軍報告の講演をしてまわった。大阪でもやった。このとき、久しぶりでお茶でも飲まないかと、林さんから電話がかかってきたので、宿舎の新大阪ホテルのロビーでいっしょにお茶をのんだ。

 林さんは朝日の大事なお客になっていた。いっしょに飯を食うなどは思いもよらなかった。お茶をのんでいる間も、朝日の社員が出入してあわただしくわずかに一時間ばかりだった。従軍の苦労話などを聞いた。/ところが、そのあとで出張で上京したところ、毎日新聞では、全面的に林芙美子に原稿依頼をしないことになっていると聞かされた。

林芙美子 写真左から芙美子、稲子、吉屋信子、宇野千代。女流作家は戦地慰問にも赴いていた

 約束をふみにじられた『サンデー毎日』だけでなく新聞でもいっさい頼まない、書かせない、というのだった。/偶然、久米さんの横にいたとき、社内のたれかが、この事情をききにきたので、久米さんは、サンデーの事情その他を話したあとで、/『林芙美子は大阪で、この辻平ごときに、あやまってくれと、なきをいれたらしいが・・・』/といったのには、こちらがびっくりした。

 あの調子のいい久米さんが、辻平ごときにと、激しい口調を見せたのもはじめてだが、林さんが、私にあやまってくれと、なきをいれたというデマがとんでいるのも意外だった。シンの強い林さんが、なきをいれるわけもなかった。朝日から、大事がられていたが、毎日からこんなにきらわれているとは、思っていなかったろう。

 新大阪ホテルでは、他愛のない雑談と、従軍ばなしだけだった。たまたま、いっしょにお茶をのんだというだけで、このデマが生れたらしい。また私になきをいれても、私の力ではどうにもならない地位だった。林さんも、これ位のことは知っていたろう。林芙美子に執筆させない処置は敗戦の日までつづいた」(『文芸記者三十年』辻平一)

週刊現代2011年12/24・31号より

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