プロレタリアの新人作家として、
川端康成から絶賛されて---
佐多稲子Vol.6

vol.5はこちらをご覧ください。

 『レストラン洛陽』は、『文藝春秋』昭和四年十月号の川端康成による文芸時評で絶賛された。

 「窪川いね子氏の『レストラン・洛陽』(文藝春秋)を批評するに当つて、私は新しく別のペンを持ち出して来たい。がさつな文章を、つつましい光のひそんだ文章に改めたい。そのやうに---この作品は、とりわけ作者のしつかりとした落ちつきは、私に尊敬の念を起させたのである。/これは、レストラン女給生活の真実である。

 彼女等の内から見た真実である。カフエやバアの女給達の姿は、咲きくづれた大輪の花のやうに、近頃の文壇の作品に、けばけばしく現れ出した。余りに外面的に、従つて猟奇的な対象として---だが、一群の彼女等がこの作品の中の彼女等のやうに、ほんたうの姿を見せたことはないであらう。

 真実はいつも質実である。---そのやうな言葉をこれは思ひ出させる。透徹した客観と、女性的なものとが、このやうに物柔かに融け合つて、作品を構成したことは、全く珍らしい」

 北条民雄の『いのちの初夜』に象徴されているように、川端はその作家生活において、多くの新人を発掘し、世に送り出した。その長いリストに、稲子の名前も刻まれたのである。

工場で働かなければ、労働者の事はわからない

 稲子は一躍、左翼陣営の新進作家として注目されるようになった。小説やエセーだけでなく、ルポルタージュなどの仕事も請け合うようになった。亀戸に櫛比していたモスリン工場の女工たちに取材した記事がある。

「一、織場で

 作業場いっぱいに機械の音が響いている。/光線は天井の明り窓にさえぎられて、部屋の中はセルロイドのような曇った明るさだ。/白い作業服をきた女工さんたちが絶えず身体を動かしている。まっ白い毛糸の玉が機械の上でくるくる廻る。/部屋の中はとても熱い。いつも百度以上の暑さだということだ。女工さんたちはここで八時間立ち通しだ。/『ずい分、くたびれるでしょう。』/私は大きな声で働いている女工さんに聞いてみた。

 女工さんは少し笑って、並んでいる仲間の顔を見た。振り返られた女工さんは私の声が聞えないから何だか分らないでいる。/『一日に五里歩くっていいますよ。』/女工さんは言いながら片手を拡げて見せた、案内のAさんがそばで、いそがしい時は台の廻転が早くなるから、一人一台だと説明してくれた。/『そんなら、その時は一日十里も歩くわけですね。』

 二、廊下で

 長い仕事場から廊下へ出ると、風が吹いて気持ちがいい。女工さんが廊下へ水を呑みに出ている。/『廊下へ出るとほっとするでしょう。』/私はまた一人の女工さんを摑まえて聞いてみた。/『ええ、夏は廊下へ出るのが楽しみです。だけど冬はいつでもこの廊下へ出る時に、空気が急に違うから風邪を引きますよ。』/そう言ってその女工さんは水で顔を洗った。並んでいる水道の口は井戸の水だ。冷い。

 けれどもこの水は腐っているから呑むと腹をこわすそうだ。注意書がしてある。本当の水道もあるが、これはぬるい。つい腐っていると知りながら冷い水を呑むのだ。/廊下の壁に『制服にまだしないものは早く制服になおすように』/と、貼り紙がしてある。/『制服は会社から出るのですか。』/『いいえ、自分で買うのです。』/『じゃ、バカらしいわね。』」(「女工さんと職場で語る」『文学新聞』昭和六年十月十日号、『日本プロレタリア文学集34 ルポルタージュ集2』所収)

 かつてキャラメル工場で働いていた稲子が、作家としてモスリン工場の女工にインタビューをしたのに対して、一歳年上の中本たか子は、山口での小学校教員としての生活に飽きたらず、文学を志して昭和二年に上京し、プロレタリア文学の奔流を浴びた。みずから労働運動の前衛として働く決意をしたのである。

亀戸天神社 稲子が女工たちを取材した、紡織のモスリン工場は亀戸(東京・江東区)にあった

 「わたしはもう、そこでどんな目に会おうと、もはや小ブル生活にひきかえすわけにゆかなかった。/労働者街へゆき、できたら、工場へはいって働いてみたい。働かないで、そばから見ただけでは、労働者のおかれた環境やその社会的、階級的なかんけい、本質が充分につかめないのである」(『わが生は苦悩に灼かれて』)。

 自らの経験を描いた小説『モスリン横丁』で、中本は自らの亀戸での活動を記している。

 「資金となるものは何一つなく、里代が、六畳と四畳半と玄関の二畳と台所のついた家をかり、そこを労働女塾としてあつまる女工たちに開放しているだけのことで、里代の友人や知人や方々からの援助でたつていた。したがつてまだ黒板もなくて、説明するときには紙の上に鉛筆でかいて説明しているし、謄写版がないので文書の発送に手間どるし、文庫がいるし、ミシンがいるし、一通りの設備をもつまでには、あまりに多くの不足があつた。

 だが、里代はよく不自由をしのんで、この女塾を向上させて、一歩でも女工たちを前進させるのにやくだてば本望としていた。/そこへ、高木民枝がひつこしてきたので、里代はきゆうに自分のしごとにある種の圧力がくわわつたのをおぼえた。里代はこの七月にある雑誌の座談会で民枝と顔みしりになつたまでで、おたがいにその人となりを何もしらないでいた。

 しかし、民枝はどこか労働者街におちつきたいとねがつていたので、里代がいよいよ労働女塾をひらくと、さつそくそこをおとずれ、塾の維持会員になり、やがてそのそばへひつこしてきたのであつた。里代は七月にはじめてあつたときの民枝が、まだ振袖のようにながい袂をふつて、顔に脂粉をかおらせていたのをおもいやり、民枝がはたして何をし得るのかというひややかな眼をむけていた。

 が、ひつこしてきた民枝は、もう脂粉をおとし、木綿の粗末な着物をき、瞳に異様なひかりをもやして、まるで一気にホームランをうちこもうとでもするかのようにひたむきになつていた。(中略)/民枝を女工たちに紹介した里代は、みながまだまるで民枝となじまないのをみて、なぜか安心するものをおぼえた。この地盤は何といつても自分のものであるといううごかしがたい自信と安定感とが、彼女を気づよくとらえていた---」

 中本は昭和五年に治安維持法の廉で逮捕され、特高から性的暴行を含む凄惨な拷問を受け、市ヶ谷刑務所で精神疾患を発症し、松沢病院に収容された。

 稲子も、一度、戸塚署に拘留されたが、ビンタを一度、張られただけだったという。

 この辺りの扱いの違いは、一体、どこから来るのだろうか。小林多喜二が、敵視され、憎まれた事は、解る気がするけれど。

週刊現代2011年12月10日号より

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