一日違いで生まれ美術を学んだ二人、それぞれの人生の軌跡

洲之内徹Vol.6

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 「犬馬難魑魅易」という成語がある。韓非子のものだというが、韓非子はそんな事を云っていないという人も居て、なかなか難しい。

「犬馬難魑魅易」 筆者が購入した書。白洲正子が松田正平から譲り受けたそれとは風情が異なるが・・・

 大意は、魑魅魍魎というような、要するに化物じみた、複雑だったり巨大だったり無闇に迫力があったりおどろおどろしい物は、実はたいした事がない、絵を描くにも難しくないものであって、馬とか犬のような、平凡でありふれている存在の方が、汲み尽くせない味わい、面白さ、本質的な哀しみや喜びを教えてくれる、そして、描くのは容易なことではないというような意味であろうか。

 白洲正子は、千葉の鶴舞にある松田正平のアトリエを訪れた時、「犬馬難魑魅易」と書かれた短冊が壁に貼られているのを見つけ、所望して貰い受けてきたという。その一件をエッセーに書いているのだが、どうにも羨ましくて仕方がなかった。

 図版に載っている字の風情は、いかにも飄々として楽しげであるし、無造作に貼られて、アトリエの空気に曝されていた、あまり上質なものには見えない、短冊のヨレヨレ具合も、いかにも、という感じがするのだった。

正真正銘の薔薇がそこにあるのだ

 その短冊は、無論、白洲正子の所有に帰した訳だが、数年後、銀座のフォルム画廊にいったら、「犬馬難魑魅易」があった。

 ただ、この「犬馬難魑魅易」は、書としては面白いのだけれど、短冊は立派な和紙だし、額も立派な細工が施してあり、ガラスも嵌められている。要するに売り物として、きちんと、完全に仕立てられていた。画廊で陳列されているのだから、当然といえば、当然なのだけれど、どうも立派である事が、物足りないというか、味気ない。この辺りの心情は、かなり込み入っている。

 もちろん、白洲正子のような、国宝級のハンターというか大盗賊(尊称です、一応)に比べたら、こちらはチンピラの端にもひっかからないのだから、地団駄踏んでも仕方がない。有り難く買わせていただきました。

 画家をつかまえて、書の話をするのも失礼だけれど、松田さんは「絵を描くような気分で字を書く。ある意味じゃ、デッサン」(『犬馬難 気まぐれ帖Ⅱ』)と語っておられる方だから、お許しいただけるかもしれない。

 字がデッサン、という云い廻しがすんなり腹に落ちるのは、松田さんのデッサン、ひいては油絵具や色鉛筆の作品がもっているシンプルな風合いと通じるところがあるからだ。

 洲之内徹は、薔薇を描かせて名人は、梅原龍三郎と児島善三郎、そして松田正平だと語って、「やめなさい」と松田さんにたしなめられたと書いている。薔薇の三傑に入るかどうかは知らないけれども、松田さんの薔薇が独特の風合いをもっている事は、間違いない。好きか嫌いかは分かれるだろうけど、花の姿を示して、花の在処を無理なく、力なく、だからこそ不敵にしぶとく示す力は、泰西名画でもお目にかかれないものだ。かつて観た、どんな薔薇、あるいは花の絵とも違う、けれど正真正銘の薔薇がそこにあるのだ。

 松田正平は、大正二年一月十六日、島根県鹿足郡青原村に生まれた。

 洲之内徹は松田が生まれた翌日、愛媛県松山市大街道で生まれている。

 一日違いで生まれた二人の軌跡は、途中まではかなり似ている。

 十二歳で松田は山口の宇部中学、洲之内は愛媛の松山中学に入学し、相前後して油絵具を入手し、絵を描きはじめる。

 上京は洲之内の方が一年早かった。昭和四年の夏休みに美術学校受験のため東京小石川の川端画学校に入門した。

 翌年、洲之内、松田の二人は美術学校を受験。洲之内は合格するが(建築科)、松田は落第し、洲之内の後塵を拝する形で川端画学校で受験勉強をする。

 昭和七年、松田は美術学校の西洋画科に合格、藤島武二の指導を受けることになった。この時すでに洲之内徹は、左翼活動に足を突っ込んでいた。同年、洲之内は治安維持法違反で検挙され、美術学校を退学処分になり、松山に帰郷するが、松山でも左翼活動により逮捕されて、一年三ヵ月ほどの拘置所生活を送る。

 一方、松田は順調に画壇での地歩を固めていった。昭和十年帝展に入選、翌年には文展にも入選している。

 昭和十二年、美術学校卒業後、松田は五年の予定でヨーロッパ留学に出発。洲之内は翌年、北支那派遣軍宣撫官として中国にわたった。

 ここで二人の人生は大きく分かれる。

 大戦が迫り帰国した松田は、山口師範学校で美術教師となるが「このままじゃ絵描きになれない」と辞職、敗戦前には妻子を親戚に預けて炭坑夫になる等、苦労を重ねた。

 二人の軌跡が再び交わるのは、昭和五十三年に松田の素描個展が現代画廊で開かれた時である。洲之内は、昭和三十四年から絵画に携わってきたが、松田がその視野に入ってくるまで二十年の歳月を要した事になる。

『芸術新潮』の連載では、初登場が第五十七回(昭和五十三年三月号)、全部で五回登場している。それ以来、二人の関係は深い深いものになり、洲之内は三年連続大晦日を松田邸で過ごし、松田は彼が死去した時、「洲之内さんは私の全てだった」と呟いたという。

「松田さんのアトリエの中は真直ぐには歩けない。(中略)去年の春、初めてこのアトリエに入ったとき、私は画商にもあるまじき大失態を演じてしまった。画架にかかっている半出来の作品を見ようとしてそこへ行き、なんだか踏んづけているような気がして足許を見ると、私は松田さんのパレットの上に立っていたのだ。

 まさに一生の不覚で、以来、松田さんのアトリエの中を歩くときには細心の注意を払っているが、しかも、この乱雑さの中で、松田さんが床から描きかけの一枚の小さなカンバスを拾い上げ、埃を払って、磨き出すようにそれを美しい画面に仕上げて行く過程が、ごく自然のこととして私に浮かんでくるのは何故であろうか。

 (中略)松田さんのアトリエは汚いが汚らしくはない。そういう汚らしいもの、他人を意識した物が一切ない。裸の蛍光灯で照らされたその古い土蔵の中で、松田さんは誰とも会話しないし、会話を予想していない。話し相手は自分だけ、つまり独り言を言うだけだ。絵を描くことも独り言なのだ」(「自転車について」『帰りたい風景』)

以降はvol.7 へ。

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