「本が読みたい」と職を変えるも、困窮に喘ぐ日々。
そして、自殺へ---
佐多稲子Vol.3

vol.2はこちらをご覧ください。

 大正十年、佐多稲子は不忍池の料理屋清凌亭を辞めて、日本橋丸善の店員となった。新聞の求人広告を見たのである。

 丸善に移ったのは、本が読みたいからだった。給金は、祝儀を貰える清凌亭の半分になってしまったが、それでも本が読める環境にいたかったからである。

 女店員の応募資格は、高等小学校卒業だった。稲子は、高等小学校どころか、尋常小学校も出ていない。けれども、高等小学校卒業ぐらいの事は出来るだろう、と履歴書に高等小学校卒と書いて出してしまった。

 入社試験はごく簡単なものだった。ただ、ローマ字が書けなかったので、弟に教えてもらわなければならなかった。弟も正規の学校には通えなかったが、正則英語学校の夜学に通って英語を習得しようと努力していたのだ。

 高等小学校卒、ということで稲子は一階の洋品部の化粧品売場に、配属された。フランスのコティが売れ筋だったという。当時の丸善は二階がすべて洋書売場で、女店員は女学校卒の外国語が読める者が配属され、一階の和書、文房具、洋品は高等小学校卒だった。

「貧乏人は金の遣い方を知らない」

 丸善に入って、稲子は料亭の座敷女中から日本橋の女店員へ、一瞬にして変貌した。ひさし髪に紫色のモスリンの上っ張り。それでも帯の結び方が低かったので、「普通の娘と違う」と指摘された事があった。

 丸善に入ってからは毎日、本が読めた。通勤の行き帰りに本が読めたし、家でも本を読んだ。

 本は、男性社員たちが貸してくれた。

丸善 稲子は、日本橋店(東京・中央区、写真は現在)の店員となり、多読の日々を過ごした

 店では、男女交際は御法度なので、電車のなかで借りたり、返したりする。

 倉田百三、島田清次郎、メーテルリンク、アナトール・フランスなどなど片端から読んでいった。アナーキズムにかぶれて、「大杉栄の眼は凄いのよ」と語る、女性の同僚もいた。

 しかし、その昂奮はながくはつづかなかった。わずかな日給で、この先、ずっと暮らして行かなければならないと思うと、毎朝、働かないうちに疲れてしまうのだった。ついに毎朝、死ぬ事を考えるようになってしまった。

 二年ほど勤めた。同僚に勧められて、生田春月が主宰している『詩と人生』の準同人になった。ペンネームは「夜思美」という、感傷的なものだった。

「灯
おお誰か
私の胸の塔に
灯をつけて下さい
暗を好んだ私でしたが
あまりの淋しさに
今は灯をとぼしたい(一九二二・一〇)」

「世
我が知るかぎりにさえ
かく悲しみの多きものを
おお、世の中ぞ
思わるるよ
美わしき乙女あり
胸を病みて
死をまつばかりなるも悲しく
また一人のおんな
己がおごりのために
邪をおこないて
今は人にあざ笑わるるも哀れ
まだうら若き身を
ああなになれば
かくはなげきの世ぞ(一九二三・八)」

 ある日、家に帰ったら、生田春月からの手紙が来ていた。新潮社から出ている『文章倶楽部』に新進の女流詩人五人を紹介するので、新作の詩と写真を送れ、というのだ。

 慌てて、とても自信がございません、という手紙を稲子は送ったという。

 縁談がもちあがった。

 小堀槐三という資産家の跡取りが、丸善の上役を通じて申し込んできたのだ。小堀は当時二十六歳で慶応大学の学生だった。

 迷いはあったが、結婚する事にした。

 新婚旅行の時に「貧乏人は金の遣い方を知らない」と云われた。

 さらには姉婿と関係しているだろうと詰問される。

 小堀は、ある種の被害妄想で、毎日、毎晩、稲子を責めた。

 稲子を追い詰めれば、追い詰めるほど、夫も精神的に行き詰まってゆく。

 稲子は、追い詰められて睡眠薬を呑んだ。

 夫が医者を呼び、一命をとりとめた。

 けれどすぐに夫は、自分一人を残して死ぬつもりだったのか、と云って毎晩責める。

 そして若い夫婦は、服毒による心中を試みた。

 『詩と人生』の主宰者だった生田春月は、室生犀星が「日本の近代詩人の中で、その生前中これほど民衆に親しまれ愛された詩人は他に類例をみない」と評価し、萩原朔太郎をして「春月君は日本詩壇の燈台である」と云わしめた存在であったが、現在、春月が国文学の紀要といったメディアを除けば、話題とされる事はほとんどない。

 大正六年の処女詩集『霊魂の秋』、大正七年の第二詩集『感傷の春』は爆発的に売れ、双方、六十刷を越えたという。

 春月は、また、語学に堪能だった。ツルゲーネフの『はつ恋』、ドストエフスキーの『罪と罰』、シャトーブリアンの『アタラ』『ルネ』、『ロングフェロウ詩集』、『バーンス詩集』、『ゲエテ詩集』、プラトンの『饗宴』などの訳を手がけ、ハイネに至っては、全集を上梓しているのだ。春月全集の二冊分を占める長編小説『相寄る魂』を執筆してもいる。

 精力的に執筆、翻訳にとり組む一方、女性関係は乱脈を極めていた。大正三年、西崎花世と共同生活をはじめるが、大正五年には森田草平の門下生山岡田鶴子と恋愛をはじめている。その後も、女性関係は収まらない。

 昭和二年から精神的に行き詰まってゆき、神戸の愛人との関係が深まっていく。一方でもう一人の愛人とも名古屋で会っている。そして昭和五年五月十九日、神戸の愛人と会った後、築港から別府行の菫丸に乗った。船中で遺書を書き、播磨灘に身を投げた。春月の遺体は、六月十一日、小豆島の坂手港で発見されている。

週刊現代2011年11月19日号より

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