絶筆となる原稿を捧げた若き版画家。
無名の芸術家の惨憺たる境遇

洲之内徹Vol.5

vol.4はこちらをご覧ください。

 いまさら云いたてるまでの事はないのだが、隅田川は東京の東側---まあ江戸という事かな---で暮らす人間にとっては一番大事な川で、遡れば荒川との距離がつまる北区あたりまでいくけれど、たいがいは水神大橋、つまりは木母寺あたりが上限ということになるだろう。そこから白鬚橋、桜橋、言問橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、両国橋、新大橋、清洲橋、永代橋、相生橋で、打ち止めになる。

 相生橋は、月島と越中島にまたがっていて、もちろんとうに晴海から佃、お台場と埋め立てられてしまってその面影はないけれどもかつては隅田川の河口をなしていたのである。

 洲之内徹は、『芸術新潮』での連載、「気まぐれ美術館」の最後の二回「夏も逝く」、「一之江・申孝園」を藤牧義夫に捧げている。藤牧は全四巻六十メートルにおよぶ『隅田川絵巻』を残し二十四歳で消息を絶った。

「家庭というものはやっぱり要るのかな」

 とはいっても、洲之内に擱筆に至るというような意識はまったくなく、「夏も逝く」では、いつもの調子で藤牧の代表作とされる昭和九年の木版画『赤陽』に三つのバージョンがあること、その事情を忖度し、図版などを並べているうちに、ゲンロクマメの夏休みの話になり、その母と三人で勝浦から那智の滝を廻る旅程が述べられた後、新宮で大石誠之助の墓を探した顛末が記される。

 大石は、大逆事件で謀議に与ったとして処刑された---その実態はまったくないと証明されている---医師である。そこから新宮繋がりで佐藤春夫の話になったりした後にやっと墓をみつける。

「彼のママは、自分とゲンロクマメとを私に写真に撮らせても、私と彼とを自分が撮ろうとはしない。彼等のアルバムに、なるべく私の痕跡を残したくないかのようである。(中略)その私が、この頃、私にも家庭というものはやっぱり要るのかな、と思うことがある。私が彼等の家へ行くのは平均週一度か、ときには半月ぶりなんてこともあるが、朝、寝床の中で目を覚まし、家の中で女の声や子供の声がしているのを聞くと、それだけのことで何だか気持ちが安らかになる。(ふるさとへ回る六部は気の弱り)という川柳がある。私も気が弱くなった」

 などと書いておいて、女の子から手紙が届いた話になり、その娘と腕相撲をしただの、マフラーを貰っただのという話になるのだ。

 「一之江・申孝園」では、少し態勢をたてなおし、藤牧義夫、畢生の大作について語りだす。

 洲之内のもとに国柱会事務局長の大橋邦正氏から手紙が届く。かつて『隅田川絵巻』に描かれている庭園がどこか、という疑問を呈していたのにたいして、応じてくれたのである。藤牧が描いたのは、国柱会の本部、申孝園だという。

 国柱会は、田中智学によって開かれた法華団体である。明治以降の日本を、宗教という観点から見れば法華の時代として総括することは、さほど乱暴な議論ではないだろう。その先頭を切ったのが、田中智学であった。現在、宗教団体が広く行っている、文化事業、慈善事業、社会事業、そして大規模な宣伝活動などは、ほぼすべてが田中を淵源とするものであり、田中の足下には、坪内逍遥、中里介山、石原莞爾、宮沢賢治など、錚々たる顔ぶれが、詰めかけた。

 藤牧義夫もまた、田中のもとに身を投じた若者のひとりだったのである。

 明治四十四年、群馬県館林に生まれた藤牧は、十七歳で上京し、銀座の図案工房に就職、春陽会展などに版画を出品するようになり、小野忠重率いる新版画集団に参加した。その後、小野の周辺から、藤牧が右傾した、といった噂が流されたようだが、それは国柱会との関係についての事だったのだろう。

 大橋の教示により、洲之内は、申孝園に赴くのだが、かなり辛そうである。「すぐにも申孝園へ出掛けたいところだったが、向こうではいつでもいい、日曜日でも構わないということなので、数日後の日曜日に行くことにした。実は、前回でも藤牧の資料を貸してもらった後藤洋明君に手伝って貰おうと思ったのである。

 たぶん睡眠不足と酒の飲み過ぎの結果だろうが、ここのところ私は躰全体が痛く、脇腹や胸を押えながら歩いている始末で、当然注意力も散漫を極め、行って話を聞いたり、メモを取ったり、資料を選り分けたり、写真を撮ったり、できれば当時を再現する見取り図を作ったりを一人でやる自信がなかった」

 「気まぐれ美術館」の連載は、『芸術新潮』昭和六十二年十一月号で終わった。洲之内徹は、昭和六十二年十月二十八日に逝った。

 「最後の私小説作家」と呼ばれた野口冨士男も、藤牧義夫に執心していた。もっとも野口の執心は、彼が藤牧と同年の生れであり、昭和初期の大不況時代を生きたという共感からであった。藤牧について書く当てを編集者から問われた野口は、かく語っている。

『相生橋煙雨』 「最後の私小説作家」と呼ばれた野口冨士男の小説。写真は現在の相生橋付近

「書けるか、書けないか、そんなことは今のところ雲をつかむようでまったくわかりませんけどね、その藤牧義夫っていう人は明治四十四年の生まれだそうですから、僕と同年なんです。

 しかも書くものが売れなかった点では僕にも身におぼえがあることなんですが、ごく少数の例外をのぞけば昭和十年前後の無名の芸術家はさんたんたるもので、彼もよっぽど苦しかったんでしょうね、友人の版画家に自分の作品を預けて、浅草の姉の家へ行くと言いのこしたまま、それきり消息が絶えちまったんだそうです。

 死んだっていう証拠もないけど、誰も遭った者がいないっていうんですから、今で言う蒸発なんでしょうが、それがまた昭和十年の九月で、僕自身も勤め先が倒産してちょうどそのころ失業中だったもんですから、へんな因縁を感じるんです」(『相生橋煙雨』)

 野口冨士男は、生まれてすぐ両親が離婚、七歳の時に神楽坂で待合を経営していた母に引き取られ、見栄坊の父の趣味で慶応義塾幼稚舎に入り、普通部時代から回覧雑誌、同人誌にコラムを執筆しはじめた。慶応予科で留年した後、文化学院を経て紀伊國屋出版部に入るが、同社が倒産、都新聞に転じるが肺疾により解雇、河出書房に入社するも三月で解雇される。

 惨憺たる二十代、三十代を過ごした後、舟橋聖一が組織した「キアラの会」に属し、その機関誌の編集長となり、五十なかばを越えて漸く小説家として認められ、六十七歳『かくてありけり』で、読売文学賞を受賞、八十二歳で逝去するまで現役の作家であり続けた。『相生橋煙雨』は、昭和五十七年の作品である。

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