2011.04.20(Wed)

今こそ考える!なぜ日本は食料輸入大国になったのか Vol.1

生きるためにいちばん大切な「食」の話

筆者プロフィール&コラム概要

 そして同月一九日にも「飯米獲得人民大会」が開かれ、同じく皇居前広場に二五万人が集結した。現在は東京観光の名所となっているあの場所が、飢えに苦しむ日本人で埋め尽くされたんだ。

 食べ物があふれている現在では考えられないほどの苛酷な状況が、わずか六十数年前の日本にはあった。「いかに飢えをなくすか」「いかに食料を増産するか」、日本の戦後は食料難の解決がいちばんの課題だったんだ。

 そこで、まず政府が着手したのは「農地改革」だった。

 戦前の日本は、自分の土地を持たない多くの農家(小作農)が、地主の土地を借りて農作物を作っていた。小作農は地主に、収穫量の四〇~五〇パーセント程度を小作料として取られるという構造になっていたんだ。

 でもこれでは、実際に水田や畑を耕している農家のヤル気は出ないし、不満もたまる。一生懸命働いて収穫しても、多くを差し引かれてしまうし、不作のときなら手元にあまり残らないんだから。戦前には待遇の改善を求めて、小作争議も多発していたんだ。

 「所有の魔術は砂を化して黄金と成す」という言葉があるけれど、食料を増産するためには、小作農に自分の土地を持たせることがいちばんだと政府は考えた。また占領軍のアメリカも、日本を民主化するためには軍国主義の基盤のひとつだった地主制を解体することが必要だという見解だった。

 このような意図で、農地改革が一九四七年から一九五〇年にかけて実施され、地主の土地を小作農に分け与えた。日本の農地のほとんどが自作地となり、農家の大多数が自分の土地を持つ自作農になったんだ。

 自分の土地であれば、収穫がそのまま自分のものになるんだから、モチベーションは上がる。この効果はてきめんに表れて、食料の生産はぐんぐん伸びていったんだ。

 一九五五年になると、コメの生産量が戦前のピークだった一〇〇〇万トンを超えるようになる。これを受けて、一九五六年、政府は「経済白書」の冒頭で「もはや戦後ではない」と明記。飢えの心配はなくなったと宣言したんだ。

以降 vol.2 へ。

柴田明夫
1951年、栃木県生まれ。東京大学農学部卒業後、丸紅に入社。2006年より丸紅経済研究所所長。産業政策、国際商品市況分析のエキスパートとして知られる。著書に、『食糧争奪』(日本経済新聞出版社)『水戦争』『飢餓国家ニッポン』(いずれも角川SSコミュニケーションズ)など

このコラムは柴田さんの著書『生きるためにいちばん大切な「食」の話』から抜粋し、掲載しています。


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