2011.04.20(Wed)

今こそ考える!なぜ日本は食料輸入大国になったのか Vol.1

生きるためにいちばん大切な「食」の話

筆者プロフィール&コラム概要

 さらに戦時中に植民地だった朝鮮や台湾が解放されたことで、これらの国々からのコメの供給もストップ。一気に食料が足りなくなってしまった(朝鮮や台湾は日本の植民地だったから、高い小作料〈土地の賃貸料〉で現地の農民に水田を貸し付け、安い価格でコメを買い上げていた。また強制的にコメを差し出させたりもしていたんだ)。

 政府は「配給制度」を敷いてコメの流通を管理しようとしたけれど、一人ひとりに与えられる量はとても少なかった。成人の一食分が、ご飯茶碗一杯程度のみ。しかもコメは不足していたから、麦やイモで代用されることが多く、それすら遅配や欠配が相次いだんだ。

 そのため、都市に住む人は近郊の農村へ食料の買い出しに出かけた。同じ目的の人で、「買い出し列車」と呼ばれた汽車はギュウギュウのすし詰め状態。

 お金がないから、着物など身の回りのものを売って食料の代金にしたり、あるいは着物などと食料を物々交換したりしたんだ(タケノコの皮をはぐように、一枚ずつ着物を手放してなんとか食いつないだので、「タケノコ生活」と呼ばれていた)。

 また大都市には、戦災で家を焼かれて財産を失ってしまったり、親を亡くしたりしたために、浮浪者や孤児となった人があふれ返っていた。栄養不足で亡くなる人も続出し、たとえば、東京・上野駅の地下道には餓死者の遺体がゴロゴロしていたという。

 僕は一九五一年に栃木県の黒磯(現在の那須塩原)で生まれた。いまは温泉地としてや酪農の盛んなところとして有名だけれど、戦時中に敵国の空襲を避けて都会から疎開してきた人や、終戦後に海外から帰還した兵隊が、生きるために石ころだらけの原生林を苦労して切り開いて、水田や畑を作って大きくなった町なんだ。

 僕の家の場合は、おばあさんが東京の中野から黒磯に疎開していたのが始まり。

 終戦後しばらくは、とても苦しい生活だったようだ。電気や水道はもちろん通っていないし、ごはんも満足に食べられない。医者が近くにいないために、栄養不足の子供が死んでしまったりすることもたびたびあったらしい。

コメの増産を可能した「農地改革」

 終戦から約一年後、満足な食料にありつけない国民の不満は、デモとなって爆発する。
一九四六年五月一日、敗戦によって一一年ぶりにメーデー(世界各地で五月一日に行われる、労働者による大規模な集会)が復活。皇居前広場に五〇万人が集まって、「食料をよこせ」と訴えた。

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