徹底的に洲之内を批判した
野見山暁治という「才能」

洲之内徹Vol.4

vol.3はこちらをご覧ください。

 野見山暁治といえば、現存、洋画家の最長老という事になるのだろうか。戦没した美術学校生の遺作を集めた上田の無言館の実質的創設者としても知られている。

 長く芸大の教授を務め---現役の芸大教授から、いかに野見山さんがフェアで学生に尽くしてきたか、詳らかに聞いた事がある---、その一方多数の女性に愛された---博多一のバーのマダムが奥さんだった時代もあった---、野見山さんだけれど、私の視界から見る限り、何といっても、超一流の文章家である。『パリ・キュリイ病院』、『四百字のデッサン』、『うつろうかたち』など、傑作揃いである。

 野見山さんの妹さんの夫が田中小実昌なのだけれど---野見山さんのエッセイで、その姿も活写されている---こんな腕のたつ義兄をもって、さぞや小実昌さんも辛かったろうと思う。

 もちろん、田中小実昌の『ポロポロ』も、『アメン父』も素晴らしい。素晴らしいけれども、義兄の前では、少し影が薄くなる。絵描きだけに濃い影を描くのはお手のもの、というのは巫山戯すぎてはいるけれど、いずれにしろ小実昌さんはやりにくかったと思う。

花札でいうならばカス札ばかり

 同時に、洲之内徹もやりにくかっただろうな、と思う。画商であると同時に、筆をもち、筆の力で、自らの眼力により発見し、入手した作品の魅力を伝え、説得することで、一つのオリジナルな地位を築いた洲之内徹にとっては、野見山さんは実に難儀な相手だったと思う。

 洲之内について、野見山さんが書いた文章を引用してみる。ちょっと長いけれど、仕方がない、というより僕にはこれ以上縮めることは出来ない。

「どだい使命なんぞというケナゲなものは、このひとにはない。幼いときから洲之内さんをよく知っている人の記述によると、女と寝ている洲之内さんのところへ夜中、奥さんが突然やってきて、ランドセルを背負った二人の子供を置いて立ち去る。/読んでいてぼくは身の毛がよだった。女が好きというからには、こんな修羅場も覚悟せねばならんのか。

 人妻との逢引きに、暗くけわしい山路をひと晩中、登ったり駆けおりたり、ともかく身の破滅に向かってまっしぐらなエネルギーは、あの青い体のどこに潜んでいるのだろう。/洲之内さんが亡くなって、葬儀の日、北池袋の教会から郊外の火葬場に向かうバスの中で、見ると男はぼく一人だった。

 並みいる女性たち、ほとんどが故人の折々の歴史を刻んだひとだと、これはあとで聞かされた、本当か。/黒い喪服に包まれた女が席を埋めつくし、いちようにおし黙って、ひたすら車の振動に身をまかせ、同じ方向を辿ってゆくなんて、これはシュールレアリズムの世界、見ごたえのある洲之内コレクションだった。(中略)/銀座とはいっても妙に淋しい通りの、おそろしく古びたビル。

 中に入ると、あたりはうす暗く、鉄の柵みたいな扉のエレベーターが動いている。やけに狭く、がたぴし方々を軋ませながら、ゆっくりと昇ってゆくが、これは洲之内さんの責任ではない。ただよくもこんなところに画廊を見つけたものだとは思う。/天井も低いので三階まで歩いた方が早い。〈現代画廊〉、聞こえはいいが、どこか吹きよせられた溜まり場めいている。/たいていは冴えない顔の絵描きたちが、しゃべるともなく擦りきれたソファに坐っていた。

現代画廊 1961年、小説家・田村泰次郎から洲之内が引き継いだ。写真は同所の現在の様子

 画廊主は日の暮れかかる頃にやってくる。これがまた冴えない。遅刻した生徒のように極まりわるげに腰をおろす。/ようやく日の目をみたような、見場のわるい絵が壁に掛かっているのを主はぼんやりと眺める。

 これもまた、よくぞ見つけてきたものだ。/皺ばかり克明に描いている顔とか、血の色で塗りたくったような女の裸、酔って行きくれて、ばったり倒れて見あげたような夜空。/頼まれた原稿に、こんな画廊の壁の様子を書いたところ、わたしの女好きはいくら言っても構わんが、ここに並んでいる絵が見窄らしいというのは削ってほしいと、主から申し訳なさそうに電話がかかってきた」(「共倒れだな、洲之内さん」『en-taxi』二〇〇五年夏号)。

 野見山さんを紹介してくださった康芳夫さんも、洲之内にたいしては辛辣な見方をしていた。

 一方、洲之内は野見山さんの事をこう書いている。

「野見山暁治という人は不思議な人だと思う。最近、昔私が書いていた小説が二巻の全集になって出て、その挟み込みの月報に、野見山さんに文章を書いてもらっているのだが、ろくに会って話したこともないのに、どうして私という人間をこんなに見抜いてしまうのか、不思議という他ない。

 本当に、私は一度も野見山さんと話をしたことがないのだ。会うのでも、いつかこの『気まぐれ美術館』に書いたように、私が上野の山を歩いて行くと、向こうからジャムパンを囓りながら歩いてくる野見山さんと出会って、やあ、と言った、というような会い方しかしていないのである」

 (「ゆめまぼろしのごとくなり」『人魚を見た人』)

 洲之内は、大正二年生まれで昭和五年に東京美術学校に入学している。一方、野見山さんは大正九年生まれで昭和十一年の入学だ。七年違うのでキャンパスですれ違った事もないだろうし---洲之内は、入学した翌々年、思想犯として逮捕されているから尚更だ---、見る機会はまずなかっただろう。けれども、引いた文から見てとれるように野見山さんは、ずいぶん遠慮のない語り方をしている。

 これは、洲之内が没してからではなく、依頼して書いてもらった小説集の月報でもおなじような具合なのだ。「あの表情を御覧なさい。顔の造作のどこひとつにも自信のない、花札でいうならばカス札ばかりよせ集めて出来あがっている配列の、いったい、そのどこに焦点をあわせたらよいのか、洲之内さんと向いあって坐ると、わたしはいつも戸惑う」(「汚れたソファ」『洲之内徹小説全集』第2巻、月報2)。

 洲之内は、野見山さんに一体、何を期待したのだろう。洲之内自身、どこで野見山さんと知り合ったか、覚えていないという。やはり文章に惚れたのだろうか。洲之内は、野見山さんの絵については、ほとんど何も記していない。

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