龍之介や多喜二ら、名だたる文豪と交わった女流作家。
その誕生秘話---
佐多稲子Vol.1

 佐多稲子・・・。

 この名前を聞いて、どれだけの読者が反応してくれるだろうか、と思うとかなり心もとない。

 たしかに昭和文学史をひもとけば、その存在の大きさを認識することは出来る。近年、ジェンダー等の議論が盛んになったため、女流作家の研究者は増えているという。文学部でも興味をもつ学生がいると云うが・・・。

 とはいえ、世間の大勢はやはり関心を持たないのだろう。

 とはいえ昭和の文学史は、佐多がいないと大分、寂しいものになるだろう。少なくとも、私にとっては、そして少なからぬ読者にとって佐多は、ある意味で、林芙美子よりも、宇野千代よりも、吉屋信子よりも大きな存在だろう。実際、講談社からも全十八巻の佐多稲子全集が出ているし、文庫も多数出ている(どの程度生きているかは、はなはだ心もとないけれど)。

 佐多の存在感の大きさは、もちろんその作家としての力量故のものであるが、同時にその人生のカラフルさにもよっている。

 不忍池の清凌亭で女中として、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄、小島政二郎と接し、カフェの女給として働いていた時、詩誌『驢馬』の同人、堀辰雄、中野重治、窪川鶴次郎、西沢隆二らと知り合って友情を育んだだけでなく、中野の強い勧めの下、小説を書き、文学の道に進む。

 プロレタリア文学運動の興隆とともに、中野、窪川、西沢とともに参加した。

 特高によって小林多喜二が死に至らしめられた時に、小林の屍体から、肌着を取り去り、凄絶な、両腿から膝に至る皮膚出血を示したのも、佐多稲子であった。

 明治三十七年六月一日、稲子は生まれた。父田島正文はまだ県立佐賀中学校に在学中、母も高等女学校の学生だった。

 結婚していなかったため、稲子は祖母の弟の長女として届けられた。

 卒業後、父は長崎三菱造船所の造機課の書記として勤務し、家庭生活は一応安定した。両親は婚姻届を提出し、五歳の時、実父母の養女として入籍した。

 実の親の養子になるというのも変な話だけれど、一旦、縁戚の子として届けてしまったのだから仕方がない。

 安定した職を持ち、弟も生まれ、幸福な生活が続くはず・・・だった。

 ところが父は、大正四年、突然、三菱造船を辞め、一家をあげて東京に移り住むことにした。父は定職を得る事が出来なかった。

キャラメル工場からすべては始まった

 稲子は、牛島小学校を五年の半ばでやめ、十一歳で働きに出なければならなくなった。毎日、向島小梅町の借家から、神田和泉橋のキャラメル工場まで通う。キャラメル工場に勤めるというのは父の思いつきだ。工場までは電車をつかっても四十分かかった。それでは日給の手取りがほとんど残らない。祖母につきそわれて二時間かけて歩いていく。

 「女工たちが包むキャラメルは別の室で造られた。それを大きな箱に入れて男工たちが持って来るのであった。/『今日はレモンよ』/『ほうらね。さっきから匂ってたんですもの』/粉にまみれた裸のキャラメルが台の上へ音を立てて流れた。甘いレモンの匂いがあがった。

 レモンのキャラメルが造られることはそう度々なかった。それが工場主にとって損だったから。自分達の扱う菓子が自分たちの好きなものだということが彼女達を嬉しがらせた。そのレモンキャラメルが、やがて店に出ていって子供達を喜ばすだろうように。/彼女達はキャラメルのかけらなら食べてもよいことになっていた。ひろ子もトラホームの娘もそれを拾って食べた。/「あら、あんたいくらかけらだってそんなに食べるとおこられるわよ・・・」/その意地悪の女工頭の妹が急にぴょこんと頭を下げた。

 ひろ子は初めて顔を上げてふりむいた。工場主の奥さんが見まわりに来たのであった。/「お寒うございます」/「お寒うございます」/みんなが口々にそう言ってお辞儀をした。工場では毎日工場主か、でなければ奥さんが見まわりに来た。二人揃ってくることもあった。/奥さんは黙って室のまん中へ来て立ちどまった。彼女は大島の重ねをきて後手をしていた。後には可愛らしい小間使が従っていた。小間使は奥さんの傍近く用を足すので身ぎれいにさせられている。

 女工頭が傍で何かお愛想めいた報告をした。奥さんはふんふんと顎で聞いた。/彼女はそこで満足げに北叟笑んだ。---娘たちが相変らず柔順に働いていたから、そしてそれでも足りずに彼らは帰刻時間に門のところで女工達一人々々の袂と懐と弁当箱の中とを人を使って検べさせた。

 みんなは番のくるのを吹き晒しのなかに立って待っていた。/「ずい分いばっているのね」/奥さんの姿が出口から消えるのを見ながらひろ子はそうっと隣りの娘にささやいた。/「あらおこられるわよ」/目をしょぼしょぼさせながら、その娘はひろ子がまだよく事情を知らないと思ってたしなめた。/ひろ子はよその奥さんというものは、小さな娘たちに対しては笑顔ぐらい見せるものだと思っていた」(『キャラメル工場から』)

 『キャラメル工場から』は、もともとは随筆であった。その原稿を読んだ中野が、小説として書き直すように勧めたため、作家佐多稲子が誕生したのである。

 吾妻橋を渡り、勝海舟の銅像をかすめて隅田公園を横切ると、ほどなく、向島小梅町にいたる。小梅小学校の並びが三囲神社で、縁起によるならば荒れ果てた社を再建しようとした僧---三井寺の源慶と伝えられている---が、土中から白い狐に跨った老爺の像を掘りだした。その途端、狐が現れて神像の廻りを三周した、という伝承がある。境内には、宝井其角の句碑や、朱楽管江の辞世碑、包丁塚、山縣有朋によるドイツ人警察官の顕彰碑など六十余が立ち並んでいる。

 関西から江戸に本拠を移した三井家は、三囲神社を深く崇敬し、長年にわたって寄進をし続けてきた。

三囲神社 参道に狐が並ぶ神社(東京・墨田区)は、江戸に進出した後の、三井家の守護神だった

 狐の石像が立ち並ぶ参道のなか、一体だけブロンズのライオン像がまじっている。

 池袋三越の閉店に際して、表玄関に置かれていたライオンを、三囲神社に寄進したのである。

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