1179年---それは、平家にとって運命の分かれ目、そして滅亡へのターニングポイントとなる重要な年です。
●年表:1179年(治承3年)
6月 摂関家領を保有していた娘・盛子が死去
「銭の病」と記される
7月 宋銭への対応で朝廷が割れる
清盛の嫡男・重盛が死去
8月 高倉天皇が「公家新制三十二条」を発布
11月 治承三年のクーデター
このうち、6月の「銭の病」が今回のテーマです。
「銭の病」という呼称は、『百練抄』という歴史書の一頁、ある貴族が書いた日記がもとになっています。それは、
---治承三年六月ノ条「近日、天下上下病悩、號之銭病」---
という記述です。
「近頃、誰もが病に悩んでいる。皆はこれを『銭の病』と呼んでいる」
という意味です。
しかし、この「銭の病」が何を指したものかは、いまだ謎とされています。
考えられうる説をいくつかご紹介しましょう。
1.「流行り病」説
"病"という字を素直に読めば、「なんらかの病気が大流行していて、それが通称『銭の病』と呼ばれている」という想像ができます。
流行り病は何かを媒介として流行することが多いのですが、その媒介が何かわからず不安を抱く庶民は、病に"通称"をつけることがありました。
「銭の病」が発生する約10年ほど前にも流行り病が蔓延したという記録が残っていますが、そのときには「羊病」と呼ばれていたようです。なぜかというと、ちょうどその頃、清盛が後白河法皇に珍品のヒツジを献上したためです。(*1)
つまり「銭の病」は、流行り病の発生原因は海外から流入してきた宋銭だ、と考えた人々がつくりだした"通称"である---というのが、この説の趣旨です。
さて、この説では、当時実際に流行した病気は「おたふく風邪(流行性耳下腺炎)」のようなものだった、と言われています。
しかし、おたふく風邪の患者といえば主に子供です。「天下上下病に悩む」というからには、大人も大勢苦しむようなものでないと不自然ではないか? という疑問が残ります。