投獄、転向、そして戦時の体験。
洲之内を象った「虚無」

洲之内徹Vol.2

vol.1はこちらをご覧ください。

 洲之内徹は、六年ほどの間、武蔵小山に住んだことがある。

「F」というイニシャルで示されているその女性は、洲之内が経営していた現代画廊の初期を支えたという。

『肉体の門』で一世を風靡した作家、田村泰次郎から、画廊を譲渡されたのが、昭和三十六年九月であるから、「F」と暮らしはじめたのは、その前後という事になるだろう。

「F」は年の暮れ三十日に、夫を置いて洲之内のもとに出奔してきた。洲之内は、とりあえず五反田駅前の不動産屋に飛び込み、武蔵小山に部屋を借りたという。

「そのあとで、私たちは武蔵小山の商店街へ行って蒲団と、折畳式の卓袱台をひとつ買い、翌日、大晦日の晩に、画廊を閉めてから、またその商店街へ小道具類を買いに行ったが、彼女は画廊から持ってきた大きな風呂敷の四隅を、対角線の端同士で結び合わせて腕に通し、即製の袋にして、鍋、包丁、箸、茶碗、徳利と盃、スリッパ、洗剤、かなづち、米にお茶と、買った品物を何でも、片端からその中へ投げこんで行くのであった。生きることの熟練工の手際を見るようで、彼女のそんな姿を、私は感心しながら眺めていた。(中略)その正月の何日かに、彼女のご亭主が嗅ぎつけて乗りこんで来、私は、唐手の有段者だという相手と、否応なく顔を突き合わせて対決する羽目になったが、あとで聞くと、そのとき、彼女は咄嗟に、流しの上の包丁を匿したというのであった」

(「松本竣介の風景(二)」『気まぐれ美術館』)

 洲之内は、ごく小柄な人で、痩せてもいた。そんな彼が、空手有段者と対峙しながら撃退してしまうのは、不思議な気がする。

 けれど、左翼体験、投獄、転向といった紆余曲折の下、元左翼としての経歴を買われて、北支那派遣軍の宣撫官として中国に渡り、河北省陸軍特務機関員となった洲之内は、中国共産党の情勢分析に携わっただけでなく、軍による共産ゲリラの討伐に同行し、時に戦闘に参加し、捕えた捕虜を訊問し、また処刑を行ったという経歴をもっている。

二年間、まったく本を読まなかった

 それは無論、当時の日本人男性の多くが体験しなければならなかった、多様な、苦しみに満ちた運命であったろう。けれども、洲之内の美への執着、傾きには不毛で虚無的な戦場での経験、見聞があずかっているのを疑う事はできまい。そしてそのような経験を携えて、帰国し、画商への道を進む事を決めた昭和三十六年前後、四十七、八の頃の洲之内は、自らの不吉な運勢に身を任せることに慣れきってしまい、一緒に住む事になった女の、その夫が来訪したぐらいでは周章てる事もなく、咄嗟に包丁を隠したという女の機転を楽しむだけの余裕を身につけていたのだろう。

「彼女は、何らかのかたちで私と交渉を持った女性たちのうちで、私の名前が活字になることに全く関心を示さない唯一の女性であった。彼女は自分も武蔵野美大を出た絵かきのくせに、どういうわけか、人間の精神的営為一般に対して抜き難い不信と、軽侮の念を抱いていた。しかし、そういう私も、彼女と暮した数年間は本というものを一冊も買わず、一冊も本を読まなかった。武蔵小山のアパートで私たちは三度正月を迎えたと思うが、その三度目だったかに、私は彼女に向って、

『おれはお前さんを抱いてばかりいて、この二年間、他には全く何もしなかったなあ』

 と、述懐した覚えがある。いまになって、勉強ということを全くしなかったあの数年間が勿体ない気がするが、さりとて後悔もしない。物は考え様で、あんな暮しは、やろうと思ってできるものではない。それに、『あたしたちは気が合うのよ』と彼女は言うのだったが、要するにその通りで、Fのような女には二度と逢うことはないだろう」(同前)

 文学を志しながら―実際、『文学界』に掲載された『終りの夏』で、昭和三十六年下期の芥川賞候補になっている―、二年間というもの、まったく本を読まないというのは凄まじい。物事を平気で放りだして、一事にのめってしまう強靱さは、やはりある種の虚無と裏表にあるもののように思われる。

 洲之内は、武蔵小山での同棲時代、東急の池上線から山手線に乗り換えて、銀座の画廊に通っていた。

『鉄橋付近』 画家・松本竣介の代表作(1943年作)。写真は松本が描いた場所周辺の現在の様子

 「F」と別れて、かなりたってから、洲之内徹は、池上線の高架から駅舎に入っていく(今は、駅ビルになっているが、当時はマーケットだった)地点―目黒川をまたぎ、山手線と交差する―を、松本竣介がその代表作『鉄橋付近』で描いている事に気づいたという。

 中原街道を目黒川の畔から大井に向けて歩き、山手線の下をくぐった地点から描かれているのだった。

 『鉄橋付近』は、昭和十八年に描かれている。この年、松本は、靉光や井上長三郎、鶴岡政男、寺田政明と共に「新人画会」を結成した。

 新橋の塵溜めにあった蓬莱橋や、目白変電所、新宿の公衆便所、横浜、新田間川の橋など、コンクリートと鉄で造られてきたモダン都市の無機質な量感を追求してきた松本の頂点とも云うべき作品となった。

 中学一年の時、流行性脳脊髄膜炎に罹り聴覚を失った松本は、絵画に志を抱き、盛岡中学で絵画倶楽部に入り、兄の東京外国語学校入学にあわせて上京、上野の太平洋画会に通った。洲之内も所属していた、日本プロレタリア美術家同盟が結成された年であり、相応の影響を受ける一方、生長の家の活動を通して、松本禎子と知り合い、結婚している。

 昭和十五年、銀座の日動画廊ではじめての個展を催し、東郷青児に絶賛された。その一方、福沢一郎や瀧口修造が検挙される時世の下、『みづゑ』に「生きてゐる画家」を投稿し、以後「反戦・抵抗の画家」というイメージが定着している。昭和二十二年にクルップ性肺炎を起こし、翌年六月、気管支喘息で死亡した。三十六歳だった。

以降vol.3

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