白洲正子が心酔し小林秀雄が賛嘆した当世随一の文章家。東大工町を歩く

洲之内徹Vol.1

 洲之内徹という名前が、どれほど読者にとって親しいものか、書きはじめながら少しとまどっている。

 美術、とくに日本の洋画に親しんでいる人にとっては、大きな、象徴的な名前だと思う。

 世間的にいえば、銀座に画廊を構えた画商であり、同時に作家---芥川賞の候補に三度なった事があるし、横光利一賞を大岡昇平と争った事もある。小説集が二度、刊行されている(東京白川書院と月曜社)---でもある。

 とはいえ、やはりその本領は、エッセイストという事になるのだろう。白洲正子が心酔し、小林秀雄が当世随一の批評家と賛嘆した文章家として。

 もちろん、その主眼は稼業である美術、絵画にあるのだけれど、いわゆる美術評論といった範囲から逸脱した、奔放で融通無碍な文章だ。昭和四十九年から『芸術新潮』に連載された、その代表作「気まぐれ美術館」は、単行本で六冊あり---連載開始前に執筆された同趣の『絵のなかの散歩』を含めて---全冊の愛蔵版も出版されている。

 かく云う私も、洲之内徹によって洋画の魅力を教えられ、長谷川利行から松田正平、みよしらの作品を追いかけ、手に入れてきた。

 「手に入れる」という言葉は、耳障りかもしれないが、しかし絵というもの、美術作品は、どうしても手元におかなければ仕方ないもので、この事が通じないとお話にならない。

 現在、洲之内徹が収集した美術品は、そのほとんどが宮城県美術館にあり、その他、一部が洲之内の故郷、愛媛の久万美術館等に収蔵されている。

 昭和から平成にかけての美術、特に洋画の個人コレクションとしては、福富太郎氏のものと、洲之内が双璧であるが、大事業家である福富氏と対照的な、零細な画商に過ぎない洲之内徹が、堂々たるコレクションを作りあげ、後世への贈り物として残した事については、個人浪費家として深甚たる敬意を感じざるをえない。その裏面でなされたであろう労苦、その苦心よりもしんどい無理の積み重ね、何よりもそこまでしても絵を手にいれないではいられない情熱について畏怖に近いものを覚える。

大震災復興事業にともなう区画整理

「今年の冬、私は浜町の、明治座の裏手あたりにいることがよくあった。その部屋の窓から見おろす地下鉄工事の現場から、ついこの間、ナウマン象の骨が出たりしたが、部屋の主の持っている都内の道路地図をある日見ていて、私は、明治座横の大通りはまっすぐ行くとやがて清洲橋を渡り、更にまっすぐ行けば、その道が白河町、すなわち昔の深川東大工町であることを発見しのであった」

(「深川東大工町」『気まぐれ美術館』)

 昭和五年、洲之内徹は東京美術学校(現、東京芸術大学)建築科に入学した。大久保百人町、本郷丸山福山町、東中野桜山と下宿を転々とした後、六年に深川東大工町の同潤会アパート第五号館の独身者棟四階に入った。労働者の街に住まなければならない、と思ったからだという。

 洲之内はプロレタリア美術家同盟に参加し、美術学校内に支部を組織している。そして翌年、特高に検挙されて、扇橋署、厩橋署を盥回しにされた末に、郷里に帰されてしまった。

 地図を見た発見に従い、洲之内は清洲橋を渡り、わずか三十分でかつての東大工町に到着したという。

 アパートは、そのままの姿に残っていたという。一緒に歩いてくれた連れは、出版社に勤めていて、アパートのはす向かいにある『実用洋食』という看板に強い興味をもち、その価格をメモしたという。

実用洋食七福 「実用洋食」とは一般家庭でも作れるような洋食のこと。当時と変わらず健在

 ラーメン 一八〇円 カツライス 上 五九〇円 中 四七〇円 下 三七〇円 オムレツ 二三〇円・・・

 さる三月十日、風の強い日、私も洲之内徹と同じ道を歩いてみた。明治座の横をまっすぐに進み、新大橋通りを横切ると、すぐに清洲橋が見える。ドイツ、ケルン市の吊り橋を参考に設計された瀟洒な橋だ。

 橋を越え、小名木川に並行する清洲橋通りをしばらく歩くと白河一丁目だ。二丁目、三丁目と過ぎて、四丁目がかつて洲之内が住んでいたアパートなのだが、影も形もなかった。中層のマンションが建っている。

 洲之内が再訪したのが、昭和五十年なのだから、三十六年も経っているわけで、当然といえば当然なのだけれど。

 実用洋食は、健在だった。

 価格は、五目ソバ 六一〇円 カツライス 上 九四〇円 中 八〇〇円 並 七〇〇円だった。

 東大工町のアパートは、昭和戦前を代表する近代集合住宅事業を興した同潤会のなかでも最大規模のプロジェクトだった。総戸数六六三戸は、二位の代官山三三七戸を大きく引き離している。

 東大工町のプロジェクトが最大のものとなったのは、大震災復興事業にともなう区画整理と並行する形で建設が行われたために、建設を包括的な形で進める事ができず、五期にわたって建設された事と深く関係があるようだ。

「清砂通りアパートメントは最初から全体計画があって一体的に住宅団地を建設したのではない。復興区画整理の進捗、つまり換地が進み新しい街路や学校・公園などが計画決定され、姿を現すのに合わせて建設プロセスも進んだのである。そのため、全体としてまとまった姿があるわけではないが、この清砂通りアパートメントが点在しているこの地区は、独特の雰囲気に包まれていてある種の空間的な文脈が成立しているのを感じとることができる」

(『同潤会のアパートメントとその時代』佐藤滋他)

 現在、白河町には、旧同潤会アパートは、清洲橋通りに一棟だけ残っている。

以降、vol.2へ。

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