判決は死刑 山下が絞首されたマンゴーの木の下。
残された石碑

山下奉文Vol.8

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 九月三日、山下奉文は、武藤章参謀長らとともに、バギオでの降伏調印式に臨んだ。

 会場にはアメリカ第八軍司令官として、南部フィリピン、レイテ、ルソンでの戦いを指揮したアイケルバーガー将軍のみでなく、大戦初頭、フィリピンから離脱したマッカーサーに代わって日本軍の攻勢に直面してコレヒドール防衛戦を戦った末に降伏したウェインライト中将、さらにシンガポールで山下に降伏したイギリス軍のパーシヴァル中将までもが列席していた。

 二人とも、日本軍によって苦杯をなめた―特に眼前で降伏を受諾したパーシヴァル中将の味わった屈辱ははなはだしいものであったろうが―司令官であった。その二人を、わざわざバギオの山中まで呼びよせて列席させたアメリカ側のやり方は、敗者への惻隠の情を一片も持たない、ことさらに侮辱する行為と、後世から認識されても仕方のないものであろう。

 もっともアイケルバーガーは、東京に進駐した後、カウンターパートとなった杉山元元帥・第一総軍司令官に対する対応は、きわめて懇切だった。杉山を迎えるにあたって、司令部の正面玄関に副官を差し向け、元帥である杉山に上座を勧め、英語で会談したという。杉山は第一総軍の復員を早期に完遂した後、拳銃で自決した。

 その点からすれば、パーシヴァルらの列席は、アイケルバーガーではなく、殊更な演出を好むダグラス・マッカーサーの発意に拠るものかもしれない。父が統治した土地から、追い落とされた痛恨の恥辱を回復するためにも、こうした演出を必要と思ったのかも知れない。

 調印後、山下はマニラの俘虜収容所に収監された後、起訴された。「日本帝国陸軍大将山下奉文は、指揮下将兵の行動を統制する任務を不法に無視し、その遂行を怠り、兵員に残虐行為および重大犯罪を許した。国際戦争法に違反した山下奉文を起訴する」

明治人が備えていた寛容と廉恥

 アメリカ軍の猛攻下、山岳部へと撤退した日本軍は、武器、弾薬はもちろん極度の食料不足をきたした。その間、フィリピンの良民から食料を掠奪し、その脅迫下、暴行、放火、殺人などの非行があった事は、事実であった。そして、その責任が司令官の山下にある事は、ある意味で、言を俟たない事であろう。

 しかしまた、戦争終結直後の裁判において、証拠や証人等の扱いは、粗雑に流れがちであり、後世の審判に耐えるものではなかった。

 アメリカ軍から指名された弁護人クラーク大佐は、戦時法廷の放埒を憎み、日本にまで係官を送って証拠の収集に努めた。山下もまた、クラークの熱意に感じる処があり、裁判で闘う姿勢を顕らかにし、威儀をただした軍服姿で毎回の公判に臨んだ。

 判決は、十二月八日、真珠湾攻撃から丁度四年目の日に下された。

 判決は死刑であった。

 山下は、マニラから、ニュービリビッドの刑務所に移送された。

 処刑が行われたのは、翌二十一年、二月二十三日の夜、ロス・バニョスであった。

ロス・バニョス 山下は1946年2月没。高台に残る石碑には部下やお手伝いさんの名も刻まれている

 マニラの郊外に位置するロス・バニョスは、昭和三十年代の逗子か江ノ島といった感じの行楽地で、温水プール(バニョスは温泉の意)を設備した施設が、軒を並べている。

 ロス・バニョスの高台には、大きな別荘が軒を連ねている。そうした造成地の一角、マンゴーの木の下で、山下は絞首された。

「だいぶ、変わってしまいましたね」

 困惑気味にガイドが呟いた。以前は処刑場に番人がいて、写真を見せたり、線香をもってきた。

「正直に云うと遺骨収集団の方たちは、山下将軍の事を良く思っていない方が多いので、私も、そんなに頻繁に来ていたわけではないのですが、時には将軍の最後の地に行きたい、と仰る方がいて、何度か御案内したのですが、かなり様子が変わりましたね」

 遺骨収集団の来訪自体が稀になり、フィリピン各地に建立された慰霊碑が放置されて現地の方たちが処置に困っている、と報道されている。

 高台の片側、コンクリートで四阿のような物を作っている一団がいた。

 マンゴーの木が、青い実を実らせている。

 その下に、『山下将軍を偲ぶ会』と記した石碑があった。一九七〇年十一月二十三日の紀年が刻まれている。

 山下の副官であった、樺澤寅吉、鈴木貞夫、かつて麻布三連隊で、山下奉文の指揮下におり、後に霊園、青葉園を開いて、山下奉文の霊を祀った吉田亀治(山下は多磨墓地にも墓がある。また、青葉園には、山下と海南中学、士官学校ともに同期の山脇正隆、沖縄戦の司令官牛島満の墓がある)、山下家のお手伝い本間せん子の名が並んでいた。

 前にも記した事があるが、私が山下の事跡を追う興味を抱いたのは、乃木希典との比較の上であった。乃木は蹉跌と喪失を重ねながら、自らの人格を磨きあげ、さながら寓話のような存在として自らを象った存在だったが、その乃木が備えた敗将ステッセルへの労りを、明治人の備ええた寛容と廉恥を、なぜ昭和は持つ事ができなかったのか。その問いはさらに平成という時代を生きている、これからも生きるであろう自分へと返ってくるものだろう。

 保田與重郎は、山下がその遺言において、女子教育の必要性について語った言葉を引きながら、こう語っている。

「シンガポール開城に於ける将軍の風貌言動を伝へたのは、無恥な御用作家的文章だつた。御用作家風精神の持主のかいたその記事は、一言の解説を要するまでもなく、将軍の人がらや心懐を正反対のものに伝へた。しかしその日の将軍の心と命が、乃木大将の場合とどんなに違がつてゐたかといふことは、山下将軍自身がよく知つてゐたと思はれる。

 これは私が、その日より二十年後に思つてゐるところである。この自覚が、家庭教育云々の語となり、遺言となつたと、私としては理解してゐるのである。ここに私は自分の道を見て、且つ自分を信じてゐる。乃木大将のいのちに於ては、生死もなく、その点では敵味方も無差別だつた。敵味方の死を、乃木大将は沈痛に眺めてゐた。人の世に於て、ある状態に於て、戦ひに死ぬ勇士の死を、最も多く、最も深く眺めた第一の聖者だつた」

(『現代畸人伝』)

 聖者たりえない昭和の将帥の苦衷をよく慮った言というべきであろう。

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