日本軍、降伏。
捕虜となった日本軍と米軍の「落差」

山下奉文Vol.7

vol.6はこちらをご覧ください。

 丸々二日かけて、マニラからキャンガンまで行った。山下の足跡を追う旅である。

 マニラからロサリオまでの平地を横切り、ベンゲット道路を通り、フィリピンの夏の首都であるバギオで、一泊した。ベンゲット道は、日本人の移民が工事に従事して開削された道路だ。織田作之助の『わが町』には、この工事に参加したベンゲットのタァやんなる人物が登場する。

 深い谷が折り畳まれたように連なる、まさしく羊腸という形容に相応しい山道を登ってゆく。

 バギオは松並木が続く避暑地で、軽井沢とは云えないが、清里と云ってもよいぐらいの佇まいがある。いずれにしろマニラの混沌の対極にある町だ。

 街の中央にあるゼネラル・ホスピタルには、米軍の猛烈な反攻にあってマニラを放棄した日本軍が一時期、総司令部を置いていた。

 翌日は、雨のなか山をくだり、カルメンからサンホセに至ると再び山岳地帯にはいる。バレテ峠、バヨンボンを経てオリオン峠を越えると、キャンガンだ。

降伏の準備を整え、山を降る

 私たちは、自動車でバギオからキャンガンに赴いたのだけれど、山下奉文は、参謀の武藤とともにゴルフクラブを杖代わりにして、尾根を歩いて移動したのだった。

 フィリピンでの戦況は、先にレイテ沖海戦で連合艦隊の主力が大きな打撃を受けた時点で、挽回不可能である事が顕かであった。

 それでも山下らがルソン島での持久を維持したのは、アメリカ軍主力を引きつけることで、少しでも本土への攻撃を軽減するためだ。

 だが、米軍の攻撃は、山下が考えた以上に、苛烈かつ徹底したものであり、平野での持久は早々に不可能となり、山奥へと移動して行かざるを得なかった。

 山下が、ポツダム宣言の受諾を知ったのは、八月十三日の事だった。

 海軍が傍受したサンフランシスコからの無電の内容を知らせてくれたのである。

 山下と武藤は、降伏の準備を整えた。

 軍紀を厳正にして、米軍との紛擾を起こさない事。傷病兵を速やかに移動に便利な地点に集める事。兵器の集積、軍旗を焼く事等々を定めたのである。

キャンガン 山下らが投降したフィリピン・キャンガンの小学校。その一角には資料館が残る

 サイゴンの南方総軍から、作戦任務の解除と戦闘停止の命令が届いたのは、八月二十六日であった。三十日に、方面軍指揮官に米軍との交渉の権利を付与する由、総軍から連絡があった。

 降伏調印式を九月三日に行いたいと米軍からの連絡があり、九月一日、山下と武藤はプログ山の陣地から、徒歩でキャンガンまで降りていった。キャンガンの小学校で、山下は米軍に投降した。

 小学校は今、博物館になっていて、日本軍の武器や、投降した山下、武藤の写真などが展示されている。

 入り口の横で、猫が反吐をはいていた。

 農林省の技官から、台東精糖株式会社のエンジニアに転じ、砂糖黍からブタノールを抽出する研究に従事していた小松真一は、昭和十九年二月、軍の要請に従い、フィリピンで軍が直営しているブタノール試験工場設立要員としてフィリピンに赴いた。1-ブタノールは、燃料や溶媒として使用できるので、石油の代替物として期待されていたのである。

 けれど戦況は厳しく、ネグロス島にたどりついた後、仕事らしい仕事も出来ず、山下ら同様、山中を飢餓と闘いながら彷徨した。

 九月一日、ネグロス島で小松は投降した。

〈 途中、土民達が出てきて、これでもう安心したというような面をしていた。三時間程山を下った所に米軍の出迎えが来ていて、各中隊に二人ずつの米兵がカラパイン銃一つを持ってつきそった。出迎えの米兵は親切丁寧だった。そして将校にはKレイション一箱ずつくれた。十二時昼食、レイションをはじめて食べる。久々に文化の味をあじわう。

 川を腰までつかって渡渉すること二十回、やっと平地に出た。我々の隊列の中に片眼、片足を失った兵がいたが、米兵が彼の水筒に甘いコーヒーを入れてやり、煙草に火をつけて与えていた。山の生活で親切などという事をすっかり忘れていた目には、この行為はじつに珍しい光景だった。ひさびさに人情を見たような気がした。

 午後三時東海岸の開濶地に出た時、米兵が来て刀や拳銃をくれとせがむのでくれてやる。彼らはみやげ物にするのだという。ここで武装解除となる。道の真中にトラックがあり、それに次々銃や刀を投げ込んで行った。次に米兵が来て身体の外側を一通りさわってみてこれで武装解除は終った。この武装解除を見物に米軍将校二人と米人の女が二人来ていた。赤いケバケバしい服に勝ち誇ったような面をしていた。写真をパチパチ撮っていた。

 ここからはサンカルロスへ行く国道だ。先頭の米兵の足の速いのに閉口した。身体の弱い者はどんどんトラックが来て乗せて行ってくれる。土民が大勢いて、大人は無表情なるも、子供は首を切る真似したり、パッチョン、パッチョン、バカヤロー、ドロボーなどわめきたてる、嫌な気がする。

 案内の米兵はコロンビア大学文科の学生で学徒出陣で来た男、なかなか親切だった。「子供がいるのか」と聞くので、いるというと、「お前達の子供は米国から良い教師が行って教育してあげる」といった。変な気がする。大破した工場、友軍機の残骸がたくさんある。

 五時、ようやくの事で収容所(サンカルロス製糖工場広場)へ入れられた。入口で捕虜カードを渡された。「我々は捕虜でない、じつにけしからん」など意気まいている将校がいた。相変わらず字句にこだわっている 〉(『虜人日記』)

 米軍と日本軍の落差を見る小松の目は鋭い。

 与えられたレイションを「久々に文化の味」と評し、片目、片足の兵士の水筒にコーヒーを入れてやる米兵に「人情を見たような気がした」と云う。山中、飢餓の中で同朋を慮る事も出来なかった自分らとの彼我の差。すでに物見遊山気分で記念品や写真撮影に励む米兵たち。

 コロンビア大学の兵士は、小松に子供があると知ると「米国から良い教師が行って教育してあげる」と云う。その善意は、小松から見れば非現実的なものだ。とはいっても、捕虜カードを渡されて「我々は捕虜でない」と息まく日本軍将校の現実離れよりは格段にましだけれども。

以降、vol.8
 

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