モンテンルパの刑務所で、浮世の不思議を痛感した

山下奉文Vol.6

vol.5はこちらをご覧ください。

 洗濯を届けてくれたボーイに、多めのチップを渡した。実に嬉しそうな顔をしてくれた。

 窓辺に設えられた朝食のトレイには、パイナップルと西瓜がふんだんに盛られている。ちょっと考えて、パイナップルを一口だけ囓り、ミルクを入れずにコーヒーを呑んだ。

 ホテルのあるマニラの中心地を離れるとすぐ、混沌に巻き込まれる。

 信号どころか車線すら存在しないような状況のなかで、ジープニーと、同様に装飾をほどこしたサイドカー、家族がしがみついているスーパーカブが、少しでも隙間があるなら、という調子で鼻を突っ込んでくる。「お互い譲りあえば、滑らかにいくのに・・・」というのは日本人の了見にすぎないのだろう。とはいえ、東ティモールに比べれば力強い活気がある---PKOが入っている土地と比較されても困るのだろうが。

 湿地を埋め立てて造成された土地には資材が投げ出されたまま放り出されている。デベロッパーが資金繰りに失敗したというのだが、その間にも賑やかな色あいのバラックが立ち、赤ん坊を抱えた女物売りが窓を叩く。どうにもこうにも変わらないフィリピン。

 やっとハイウェイに辿りつく。日本からの借款で造られたもので、というような説明を聞いているうちにモンテンルパにつく。

手入れの行き届いた日本人戦犯の墓地

 モンテンルパ、といえば渡辺はま子の歌で知られている如く、刑務所のある土地として日本では認識されている。実際、今でも刑務所はあるけれども、ここ数年、マニラのベッドタウンとして開発が進んでいるそうな。

 敗戦後、モンテンルパのニュー・ビリビッド刑務所に日本の戦犯百六人が収容され、十七人が処刑されている。

 山下奉文も一時、ニュー・ビリビッドに収容されていたが、ロスバニョスに移送され、そこで処刑されている。

 それにしても、山下の人生の振れ幅の大きさはどうだろう。石原莞爾は、当人にとって残念なものかもしれないけれど---早く軍中央を追われその才を存分に発揮出来なかった---、予言者、思想家としての足跡を残す事ができた。東條英機は、未曾有の大戦を指揮した後、大東亜戦争のシンボルとして処刑されることで歴史的存在になりおおせた。けれど、山下はどうだろう。二・二六事件での蹉跌からシンガポールの栄光、フィリピンでの惨憺たる消耗戦の後、身に覚えのない罪を着せられて処刑された・・・。

 そのコントラストは、はなはだしく、また激しいもので、ときに当惑してしまう。

モンテンルパ刑務所 歌謡曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」でも有名。山下ら日本人戦犯を収容した

 モンテンルパ刑務所を訪ねた。

 門前には、差し入れ品を売る店が並んでいる。様々な男女が行き来し、カラフルなTシャツを着た囚人がうろついている。教会や民家、畑などが刑務所の敷地と入り組み、侵食しあっている。

 刑務所の一角には、日本人戦犯の慰霊墓地もある。岸信介が「フィリピンの靖国神社」として造成したもので、簡単な日本庭園も附属している。

 二重の日本風のコンクリートの屋根の下に、墓石が林立している。

 墓は、現在、有志の囚人が手入れをしてくれている。とてもきれいだ。

 入り込んできた、子供や犬、山羊などが長閑に戯れている。

 この光景を見る事が出来たなら、山下奉文は何と語るだろうか。

 モンテンルパの刑務所は、大変カジュアルで看守にチップを弾めば、監房の内部を見学させてくれるらしい。

 ちょっと興味がないではなかったが、旅程が厳しいので諦めた。

 藤野眞功氏の『バタス』は、日本人でありながらフィリピン最大の刑務所のプリズン・ギャングのリーダーになった大沢努という人物の半生を描いた、近年希に見る骨太のノンフィクションだ。

 長年の服役の後に釈放され、フィリピンから国外追放になった大沢と接触した著者は、ただ彼から取材するだけでなく---その話だけでも、途轍もなく面白いのだけれど---、彼をもう一度、モンテンルパに連れていってしまう、という常軌を逸した取材を行っている。

 何度かの接触の後に、大沢を温泉に誘ってともに入浴し、彼の臀部にフィリピン・ギャングの刺青を確認する、といった手続きを踏んだ上で、著者は『数ヵ月分の収入』をフィリピンの入国管理官に払って、大沢を再入国させようとするのだ。

 紆余曲折があり、旧知の通関関係者や現地の警察官などの手を借りてついに大沢は、マニラ出身者たちからなるギャング組織スプートニクの棟に足を踏み入れる。

〈 「コマンダー・オオサワ!」

 その声の方角から、十数人の囚人が全速力でこちらを目指す。中には、傘を持った数人の囚人。十数人が大沢と僕を取り囲む。僕らには、二人ずつ日傘係が帯同した。

「すぐそこが、おれの造ったポンドハン(集会所)です」

 人差し指は、最初の歓声の震源を指した。数十人を引き連れ、大沢はポンドハンへ向かった。

 WELCOME SPUTNIK。

 ポンドハンの入り口に記されている。セメントで綺麗に舗装されたポンドハンには、手前に応接セットの設置された四阿、奥には滑り台など子供用の遊具、右手にマリア像、その上には「GOD BLESS」の文字、左手はキッチン。とてつもない早さで、二人分の椅子が並べられ、前にはテーブルが置かれた。倍の数に膨れ上がった囚人が、僕らを囲む 〉

 ツアー・コンダクターとしてフィリピンの闇に足を踏み入れた大沢は、三十四歳の時、営利誘拐の廉で死刑判決を受けモンテンルパに送られたが、そこで旺盛に生きる決意を固める。刑務所内で、賭博のためにバスケット・チームを編成し、麻薬の密売をするだけでなく、野菜の栽培、民芸品の製作からサムスンの部品工場の管理まで引き受けていたという。

 フィリピン占領と、米軍との乱戦にかかわった日本人たちが戦犯として収容され、処刑された場所で、ギャングたちのリーダーになる日本人がいる。誠に浮世とは不思議なものだ。
以降、vol.7へ。

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