シンガポールからフィリピンへ。
山下にとって最後の戦地に赴く

山下奉文Vol.5

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 マニラ国際空港に着いた時も、夜だった。

 空港から少し離れると、長距離バスやジープニーが錯綜するカオスに巻き込まれた。なかなか景色の変わらない窓ガラスに映る、自分の顔をずっと見ている。

 山下の足跡を追って、シンガポールからフィリピンにやってきた。けれど、山下自身の実人生では、シンガポール攻略とフィリピン防衛戦は、踵を接しているわけではない。攻略が終わり、シンガポールの軍政が軌道に乗った昭和十七年七月、山下はシンガポールから直接、第一方面軍司令官として満州に飛ぶ事になった。

 大英帝国の、東洋支配の礎とも云うべきシンガポールを陥落させたという、世界史的な事件の立役者だったにもかかわらず、天皇に奏上する機会も与えられなかった。

 昭和天皇は、山下を嫌っていた。

 山下は、二・二六事件に際して、青年将校の側にたって陸軍省を動かそうと試みた。天皇の強い意志により討伐の方針が決まった後も、勅使を賜り死出の光栄を与えて頂きたい、と本庄繁侍従武官長を通して懇願した。山下の要請を聞いた天皇は、「自殺するならば勝手にせよ。此の如き者らに勅使など以ての外である」と切り捨てた上、「だいたい師団長が積極的に出ないのは、自らの責任を理解していないに等しい、直ちに鎮定すべく厳達せよ」と命じたのである。

 天皇の意を迎えるのに長けていた東條英機は、山下をずっと辺地に置き、天皇と接触しないよう処置してきた。

 その山下が、漸く天皇の前に立てたのは、フィリピンへの出征に際してであった。東條から、アメリカの反攻を撃退するため、フィリピンに赴任するよう依頼された際、山下は東京で天皇から直接、司令官の親任を戴く事を条件としたのであった。

 そして、その機会が、山下にとって最後の天皇との対面となったのだ・・・。

派遣されたシスターと大司教の「温度差」

 十一時過ぎにホテルに着いた。

 フロントに電話をして、ランドリーについて訊ねた。二十四時間やっていて、朝までにはすべて仕上がる、という。東ティモール以来、洗濯することが出来ないでいたので、有り難かった。そして、同行の深田さんを誘って、バーに赴いた。明日は早いが、シンガポールで呑み損ねたので。

 近年、オーラル・ヒストリーが、アカデミズムで流行している。確度のある証言のみでなく、主観的認識---取り違えとか、誤解とかも含めて---を尊重することで、歴史を血の通うものにしようという試みである。日本のフィリピン占領期に関する史料調査フォーラム編の『日本のフィリピン占領』は、占領に関わった、さまざまな立場の十七人の人々のインタビューを掲載している。

 その中には、フィリピンに派遣された、二十人のカソリックのシスターや信者もいる。フィリピンは、カソリックの国なので、軍が要請したのである。殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会に所属するシスター山北タツエもその一人だった。

 昭和十八年一月四日、山北ら一行は、ウィリアム・ピアニ教皇使節とミカエル・オードハチィ大司教と面会している。

占領地への宗教部隊 フィリピンに派遣されたカソリック女子部隊は、日本語教育などを行った

〈 山北: オードハチィさんはアイルランド系の方で大司教ですから、ともかくごあいさつに連れていかれたわけです。お会いしたとき、「あなた方は、なんのためにフィリピンに来ましたか。アイスクリーム食べに来ましたか」と、おっしゃったことを覚えています。

 その後は、いろんなときにもこの方はみえていませんでした。フィリピン人のゲレロ副司教がいつでもそういうところにお出になって、とても明るく協調的な人でした。日記によりますと、私どもが宿舎にしていたホーリーゴースト・カレッジの修道院がマニラの外にあって、そこで修道会の着衣式と誓願式があったときに、オードハチィ大司教が司式をされたんです。着衣式と誓願式が終わったあとでお話する機会があったはずですけど、ぜんぜん話かけられた記憶がないんです。

 だから、お話をしたのははじめのごあいさつにうかがったときだけです。私、ちょっと疑問をもったんです。意外な気がしたんです。最近になって寺田〔勇文〕さんに、当時、マニラ大司教は軟禁にちかい状態だったと伺ってはじめて読めたんです。だから、マニラ大司教が出席されるようなときには、ゲレロ副司教さんが出て下さったんです。

質問: でも、ずいぶん皮肉ですね。「アイスクリームを食べにきましたか」なんて。

山北: そのことは印象に残っています。やっぱり意外だった。でも考えてみれば、大東亜共栄圏の思想で日本は進んでいたときでしょう。これは私の想像ですが、大司教はおつらい立場にあったんだと思います。軍の対し方だって、いろいろあったのではないですか。

 ローマ使節のピアニ閣下はイタリア人でした。本当にお父さんらしい、やさしく聡明な、いい方でした。日本大使の村田省蔵さんは、なんとなくそのピアニ閣下に似ていらっしゃるなぁ、という印象を受けたんです。いい感じでしたね。そう数は多くなかったですけれど、お出になるべきところは出てくださいました。

質問: オードハチィ大司教が、「なにしに来られましたか」と言われたときに、軍のほうでなにか説明された方がいらっしゃるんですか。シスターと女子部隊の方はこういう目的でいらっしゃいました、ということを。

山北: おそらくファーブレさんの取りはからいじゃないんですか。説明なしに連れていかれるわけないですから。

質問: 大司教も、もちろん女子部隊がなにをしに来られたかは知っていたけれども、「なにをしに来たんですか」というふうに言われたと。

山北: だと思いますよ。だから私の想像では、「軍の手先みたいに」という気持ちが大司教にはあったんですからね 〉

 マニラで山北たちは、フィリピンの女性に日本語を教える授業を行った。昭和十九年五月、一行は日本に帰った。アメリカ軍の侵攻が近づいたためである。

 前大戦中、日本軍が進駐した、占領下諸国、諸地域のなかで、フィリピンは最も大きな被害を受けた国の一つである。戦後のフィリピン政府の統計によれば、百十一万人の死者が出た。日本軍将兵の死者も五十万人という膨大なものだ。

以降、vol.6

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