史実の考証よりも、情の世界をもってつくられた溝口流『忠臣蔵』
溝口健二Vol.7

vol.6はこちらをご覧ください。

 昭和十六年と十七年に公開された『元禄忠臣蔵』は、溝口健二にとって最大の作品となった。日米開戦をはさんで撮影され、フィルムの冒頭に「護れ興亜の兵の家」というスローガンが大きく掲げられるという具合。

 キャストが多いのはあたり前だけれど、考証者だけで、桃山御陵、無鄰菴などを作った造園の神様、小川治兵衛をはじめとして九人が名を連ねている。

 セットはとてつもないものだった。

 溝口は、美術監督水谷浩、建築監督新藤兼人に、「元禄時代の江戸城通りに造れ」と命じた。このセットだけで本編が一本撮れる十万円が費やされた。四百六十坪の中庭には白砂が敷きつめられ、松の廊下や広間には五百畳の畳が敷かれた。特注の屋根瓦、天井は蒔絵、透し彫りの欄干、関西在住の日本画家が総動員されて襖絵を描いた。そのセットのなかを大名、小名から奥坊主、表坊主、小姓ら五百人のエキストラが歩きまわる。赤穂の大石邸跡を実測して、原寸で復元するなど、遣りたい放題。

 セットだけを比較すれば『元禄忠臣蔵』は、同時期にアメリカで製作された『風と共に去りぬ』に比肩するものかもしれない。残念ながら、テクニカラーではなかったし、何よりも傑作とは到底呼び難い仕上がりだった・・・。

 『元禄忠臣蔵』は、真山青果の戯曲にのっとり製作された。真山の『忠臣蔵』は、『仮名手本忠臣蔵』とは、まったく異質な作品である。なにしろ真山の戯曲には吉良上野介が出てこず---映画ではさすがにちらりと出ているが---、討ち入り場面はあっさりとしている。溝口は真山の意を汲んで、討ち入りの場面は入れていない。山鹿流の太鼓が鳴らない忠臣蔵なのである。

 徹底した史実の考証によって、戯曲を書く事で真山は識られている。彼のアシスタントから二人も国文学の教授になった者がいるというのだから、その指導の厳しさが想像できるだろう。『平将門』、『江戸城総攻』、『西郷隆盛』、『人斬り以蔵』といった作品は、一分の揺るぎもなく調べ挙げられている。近松門左衛門、黙阿弥とならぶ、日本の三大戯曲作家とする意見もある。私も同感だ。

"赤"でもなんでも、正しいものは正しい

 考証を背景にして、史実を穿つだけではなく、高度の論理化、抽象化が進められる。『元禄忠臣蔵』でいえば、吉良邸に討ち入りする事の倫理性が、意義が多面的に議論され、検討されていく。

 たとえば「御浜御殿綱豊卿」の場面では、中納言綱豊(後の六代将軍家宣、市川右太衛門が演じる)は、吉良を狙って屋敷にまぎれ込んできた赤穂浪士、富森助右衛門(中村翫右衛門)にたいして「関白殿下思し召しの通り、めでたく浅野家再興のことがかなえば、たとえ汝らいかに思いつければとて、もはや吉良家仇討ちはならぬ事になるのじゃ」と云う。

 武士にとって主家の存続が最大の重要事であるのならば、関白のとりなしによって内匠頭の弟・浅野大学がいずこの小名になれれば、再興の実は成る。けれど公儀の計らいが行われれば、仇討ちは出来なくなる。そのジレンマを綱豊はついている。綱豊には、大学を再興させる事が出来るのだが、そうはしたくない。

「もし大石内蔵助はじめ赤穂浪人ら、かねて辛苦の本望遂げ、めでとう内匠頭臨終の鬱憤を晴らせしと、雲の上まできこえ上げなば、その時の御満足は大学が二万三万の痩せ大名に取り立てられた時より、百層倍御機嫌にかなうと思われるが、いかに?」。

 これは顕かな危険思想である。けれど、溝口はこの論理を捉まえる事ができない。彼の主戦場は情の世界、哀れな女性が男の犠牲になる巷であって、論理の衝突は扱いきれない。カメラワークはさえているが、場面は盛り上がらない。大石内蔵助を演じた、河原崎長十郎もかなり困った、と証言している。

 三代中村翫右衛門は、柳盛座の座長である中村梅雀の次男として生まれた。柳盛座はいわゆる小芝居と呼ばれる小劇場だった。松竹などの大資本の進出により小芝居は淘汰されてゆき、翫右衛門は父とともに中村芝翫の門弟となった。

 大歌舞伎は「象牙の塔」である。名門の跡取りでないと大きな役を得る事はできない。翫右衛門は朋輩をつのって「ともだち座」を結成したり、新築地劇団の公演に通ったりと、梨園の外の空気を味わうようになった。そのうち同じ身の上の長十郎たちと集い、革新的演劇雑誌『劇戦』を刊行した。

「そのある朝、わたしの家に、千駄ケ谷の歌右衛門(中村芝翫)の家から『くるように』と使いがきた。歌右衛門はずっと舞台に立っていなかった。なんの用かわからなかったが、無沙汰がちの師を久しぶりに訪ねた。/(中略)わたしは腹をきめていたから、つとめて静かに応待していたのだが、師匠はわたしが屈服すると思ったようだった。

 そこで切り札を出してきた。『市村(十五代羽左衛門)から電話がかかって、翫右衛門は気が狂ったんじゃないかとかんかんに怒ってた。おまえを可愛がってたからよけいそう思うだろう。わたしもみんなに申しわけないから、おまえを破門することにした』。

 わたしは『そうですか』といったきり、師匠の顔をみつめていた。悲しかった。(中略)/破門となれば、もう誰も弟子にはしてくれず、それは歌舞伎の世界から追放されるにひとしかった。その破門をいっとき協会預けというかたちにして、義理人情の枷にかけ、謝罪を待とうという筋書きがわたしにはっきり読めてきた。

『あの雑誌を見たら誰でも"赤"だと思うよ。近ごろは"赤"がいろんなとこへ首をつっこむそうだから、つまらないひっかかりになって難儀するより、雑誌を一時やめてはどうだい』。二の矢だった。"赤"でもなんでも、正しいものは正しい。わたしは正しい生きかたをする。そう考えて、『いろいろご心配かけたことは申しわけありませんでした。しかし、もう大勢の人から本のお金を半年分、一年分と頂いています。やめるわけにはまいりません』」(『劇団五十年』)

 破門された翫右衛門は、非松竹系の大衆座などで活動した後、非門閥である河原崎長十郎らと語らって、昭和六年に前進座を結成した。

 前進座は、座員の選挙により幹事長以下の人事を選ぶ、演目、配役も話しあってきめる、市川団十郎宗家の了承の下でしか上演できなかった勧進帳などの演目をレパートリーとする、といった斬新な運営をしていた。映画にも積極的に出演している。

松竹撮影所 京都の下加茂にあった松竹の撮影所は、'75年に閉鎖され、本社を太秦に移転した

 座員としての暮らし方も独特で、吉祥寺に集団で住み、稽古場と農場、養鶏場を設けて自活、独立した生活を模索した。

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