『招かれざる大臣 ~政と官の新ルール~』 著者:長妻 昭

 官僚は試験で選ばれる。

 政治家が官僚の手綱を握り、官僚は政治家を全力で支える。行動原理も違う両者が一致団結して、国難に当たることが重要だ。もちろん、これは、決して政治家が官僚に迎合することではない。

 そのために政と官の新しい関係を私なりに創り上げようとした。

 その奮闘記である。

 野党時代、私は役所の無駄や怠慢、およそ国民の常識とはかけ離れた“お上意識"を批判し、追及する急先鋒の側だった。

 なぜ、官僚任せの政治はダメなのか。ひと言で言えば、官僚は絶対に潰れず、解雇されない役所という“安全地帯"にいることで、生活者の視点からかけ離れてしまうからである。ふつうの企業であれば、顧客のニーズを汲み取る。ニーズに合わせて、柔軟に組織を動かす。それができなければ倒産という形で組織が存続できなくなる。しかし、役所には倒産がない。だから、国民のニーズとは関係なく、とにかく、組織を膨張させようとしがちである。必要な組織の拡大であればよいが、非効率に手をつけないまま、まず膨張ありきという発想だ。

 戦前の軍部がやみくもに中国や南方に進出したのは、拡大路線を取れば取るほど、司令官はじめ軍部の主要ポストが増え、予算も獲得しやすくなるという一面があった。そういう話を昭和史研究を続けている作家の保阪正康さんに聞いたことがある。今の役所と変わらないな、と思った。この膨張主義が失政や無駄を生む。いつのまにか、国民、生活者の視点とはまったく乖離した組織が、自分たちの都合で行政を動かすようになるのである。

 私は野党時代から、こうした役所の体質をイヤというほど味わい、分かっていたつもりだったが、大臣になってみると、改めて驚くことの連続だった。

 中央省庁の官僚組織は一つの生命体のように見える。私はそこにポンと置かれた異物のように感じたものだ。生命体は異物が入り込むと抗体反応で排除に動く。霞が関の抵抗を目の当たりにするたびに、そんな感覚にとらわれた。

 おそらく、異物は私だけではなかったのだろう。民主党政権全体が彼らには異物に見えたのかもしれない。

 抵抗する時、彼らは省も局も関係なくなる。霞が関が全体で一つになって挑んでくる。誰が指示したわけでもない。統率者がいるとも思えない。もっと言うと、官僚が悪いわけでもない。彼らに悪意があるわけではない。しかし、官僚たちは、こういう時になると、すっと一つになる。

 おそらく、霞が関独自の常識、文化を共有している者の習性であろう。私にはそれが国民の感覚からはかけ離れた「異文化」に見えた。それを変えてみようと挑んだのである。