シンガポールに残る日本人墓地。
二葉亭四迷の最後を想う

山下奉文Vol.4

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 ガイドの案内でシンガポールのシティホールに程近い、中華料理屋に案内された。これもきわめて清潔な店で、うっかりすると二子玉川あたりのモールにいると勘違いしそうだった。

 店内を見回すと煙草はもとより、ビールを呑んでいる客もいない。本当にここは華僑の国なのだろうか、と訝しく思う。ガイドの方によると、酒を置いている店は少なく、日本人は知り合いの店に、酒を預けているという。

 食後、市の中心部から中東部へと向かう。イオ・チュー・カン・ロードから、フィリップス・アヴェニューを経て、チュアン・ホー・アヴェニューに入ると、日本人墓地公園だ。

 同墓地は明治二十四年、日本人共済会会長二木多賀治郎により開かれた。

 戦後、敵国財産として荒廃に任されていたが、昭和二十八年に総領事館の管理に帰した。

 墓はほとんどシンガポールで事業をしたり、働いていた人たちのものだが、そこに混じって日本軍関係の墓、碑も残されている。

「敵性華僑」を三日で処決という無謀

 近衛第五連隊戦死者三九六人の遺骨を納めた墓。近衛歩兵第四連隊慰霊の碑。シンガポール攻略時の戦死、病没者及び西本願寺保管の各地南方軍戦死者の遺骨を納めた陸海軍人軍属留魂の碑。

 戦後に建てられたのは、敗戦後、シンガポール島内で使役された軍人、軍属のなかで傷病死した方たちの遺骨、遺灰を納めた作業隊殉職者の碑。

 終戦後自決した将校と、戦犯としてチャンギ刑務所で処刑された百人余りの将兵の血が滲んだ土を納めた、殉難烈士の碑。

 戦犯として処刑された将兵のほとんどが、憲兵隊の関係者だった。

 山下奉文率いる第二十五軍は、シンガポール市内に駐屯し、英軍の武装解除を行った後、昭和十七年二月十七日、河村参郎少将を警備司令官に任命した。河村が受けた最初の命令は、「敵性華僑の剔出処断」を三日間で行う事だった。

 戦線の拡大に伴い、シンガポールの軍はすぐに他の戦線に転用しなければならない。転進後の治安を維持するため、今の内に粛清してしまう、というのだ。

 実際、一部の華僑は、イギリス軍とともに前線に立っており、かなり奮闘した。そうした経緯が司令部の危機感を醸成したにしても、三日で処決するというのは乱暴にすぎる。一人一人、きちんと調べることなど出来ないだろう。

 司令官の命令は強硬だったが、憲兵たちは反発した。取り敢えず疑わしい者は、刑務所に収容し、取り調べてから処分を決めてはどうか・・・。

 正論だが、司令部はとりあわない。

 結局、三日間で「敵性華僑」の処決が行われた。現在、シンガポールでは、五万から十万の華僑が殺された、と唱えられている。

 そして、心ならずも処決に参加した憲兵隊員は、敗戦後、戦犯として起訴されたのである。

 二葉亭四迷終焉の碑も、日本人墓地にある。

 明治四十一年七月、当時大阪朝日新聞東京出張員であった四迷は、社命によりロシアに赴き、ペテルブルグに滞在していた。

 翌年二月、ウラジミール大公の葬儀に際して、酷寒の中その盛儀を見届けようと二時間余り街頭に立ち、重い感冒を患った。病勢はなかなか収まらず、海軍医官の診察を受けた結果、肺結核という診断が下る。

 四迷は帰国を嫌がったが、とても外地で暮らせる状況ではなかった。ベルリン、アントワープを経由しイギリスに至りポーツマスから日本郵船の賀茂丸に乗り込んだ。この時すでに歩行は出来ず、終日寝椅子に収まっていた。

 マルセイユまではまだ良かったが、ポートサイードから体調がいよいよ崩れ、コロンボ出港後、五月十日に永眠した。

 賀茂丸がシンガポールについたのは五月十三日であった。

 賀茂丸の近藤事務長は、早速領事館と連絡をとり、四迷の遺体を荼毘に付そうとしたが、シンガポールには、当時、火葬場がなかった。

 ただ埠頭から三マイルの距離にパシルパンジャンと云う小山があり、インド人たちが火葬を行っていると云う。野天なので、雨が降るとすべてが徒労に帰す可能性がある。けれども家族に遺骨を手渡さなければ、という使命感から近藤は荼毘を決意し、日本人共済会附の釈種梅仙師を招き、在シンガポール邦人と数名が同道した。

二葉亭四迷 1864年生まれ。1909年、朝日新聞特派員として赴任したロシアからの帰途、死亡

 荼毘の様子は、近藤事務長の本社宛の報告書に詳しく書かれている。

「五時四十分梅仙師の読経あり何れ本葬挙行の事故戒名は二葉亭四迷の名を以て引導し同五十分小生の導火に次で一同之に倣ひ重ねて読経あり、会葬者一同帰途に就き候小生及び吉原添田の二給仕は徹夜監視の為居残り尚雇入れたる馬来人夫三人をも止め置かんとしたるに彼等は之を好まざりし為め已むを得ず帰し吾等は近傍の藪を切り開き国旗を以て天幕に代へ毛布を敷きて僅に休息所を作り候然るに夜中露多く又蚊及び蟻の襲来激しき為其困難少なからず午後九時頃薪の不足を覚えたれば給仕一名を従へて下山し近傍の馬来及び支那人の住宅に至り候処暗夜の上に言語通ぜず漸く手真似にて薪を買入れて帰山三人鼎坐して此処に一夜を明し候。

 十四日午前一時過火葬を終り同六時十五分梅仙師再び来場せられ候軈て読経あり終つて遺骨の収拾に取り掛り候一片の遺骨も他郷に残すは忍ぶ可からざるを以て最も注意して収拾致候処梅仙師の申す処に依れば火葬は極めて完全にして遺骨の如きも遺憾なく拾ひ得られ候同日午前七時四十分灰燼を取片附け帰途に就きたるが夜中降雨なかりしは何よりの幸いに御座候ひき尚始終氏の看護に従ひたる吉原給仕と共に添田給仕も進んで之に加はり終夜一睡もなさずして此事に従ひしは感ずるに余りあり(略)。

 是実に一篇の哀詩に非ずや。熱風吹き荒ぶ古印度の黒夜寂寞無人の境に登る荼毘一片の煙豈是れ後世詩人の好題目に非ずや」

(「終焉紀事 附埋葬記」『二葉亭四迷』坪内逍遥、内田魯庵編)

 四迷にとって洋上の死は不本意極まるものだったろうが、「詩人」の最後としては相応しいと思わないではない。

 火葬が行われたパシルパンジャンは、シンガポール攻防戦では最後の激戦地となった。百二ポンド砲弾を十六キロ先まで撃ち込める大砲が二基据えられていた。日本軍の艦船を攻撃する目的で設置されたのだが、急遽、位置転換をして砲口を陸地の日本軍に向けて巨弾を送った。

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