平松邦夫×内田樹「漱石が『坊ちゃん』で書いた教師像に学ぶ」

「教育は誰のためにあるのか」とことん語ろう 第2回

 主人公の「坊っちゃん」って、よくよく見ると変なやつなんですよ。人間的には未成熟で、ほとんど幼児的な人物でね。情緒も希薄で、自分勝手な男なんです。それがたまたま主人公になってるもんで、なんだかすごく愛すべき人物かなと僕らは思うんだけども、漱石自身がいちばん自分を投影してるのは「赤シャツ」の方なんですよね。

 帝大を出ていて、留学から帰って来て、事あるごとに「イギリスでは」とか「アメリカでは」とか言って日本の後進性を蔑む学士様というのは、漱石自身の自画像なわけです。でも、こういう人もいなきゃいけない。

 「坊っちゃん」みたいな幼児的教師もいていいし、「野だいこ」みたいなイエスマンもいなきゃいけないし、「狸」のようにですね、みんながあれこれ言うと、「まあまあ、それもあるけども、まあ、ここはひとつナカとって」みたいな調停役の人もいなきゃいけない。そういう6種類ぐらいの人物類型が、教育機関にいるキャラクターとしては必要最低限の類型だと直感したんではないかと思うんですよ。

 自分自身の教師歴を考えてみてもよく分かるんですけど、当然のことながら若い時は「坊っちゃん」から始まるわけです。それがある日気がつくと「赤シャツ」になってる。「あっ俺、いつのまにか赤シャツになってる」(笑)。で、今なんかは気がつくと「狸」なんですよね。

一同: (笑)

教師は学校に必要な「役回り」を自然と演じるもの。

内田: ということは、これは属人的な性格じゃないということですよね。ロールプレイングなんです。教師集団に放り込まれて、その人の経験年数とかキャラクターによって、とりあえずどれかの役割を引き受けて、それを演じているんです。だから面白いんですけどね、ある先生が学校を移ると、キャラ変わったりするんですよ。

平松: へえ、そんなことがあるんですか。

内田: ええ。公立の学校は転勤がありますよね、何年か勤めると。で、転勤するとね、別の人になることがあるんですね。自分が放り込まれた教師集団の中での自分の立ち位置を直感して、「あ、俺はここでは『山嵐』だ」とかね。「ここでは『野だいこ』だな」、「いや、もう歳だから『狸』だ」とかね。

平松: それだけ転勤先の学校の状況をしっかり見て、自分の役回りをきちんとコントロールできる人たち・・・

内田: じゃなくて・・・

平松: 自然に?