平松邦夫×内田樹「漱石が『坊ちゃん』で書いた教師像に学ぶ」

「教育は誰のためにあるのか」とことん語ろう 第2回

平松: うどんが食べたい。いなり寿司も食べたい。きつねうどんができちゃった、と(笑)。

内田: 思いがけない解決法って出てくるんですよ。複数の対立する要請に同時に応えなければという状況では。だから、すっきりと一貫した方針を現場に出して、みんなが一律それに従えというのは、働く側にとっては創意工夫の余地がないわけで、ぜんぜんプラスにならないんですよ。現場は混乱のうちにおいて構わないと思いますね。

平松: なんか自信持てそうです(笑)。

『坊ちゃん』に見る日本の教師の6類型

瀬尾: 自分の小学校や中学、高校の時を振り返ってみても、教師に何を教えられたかってことは覚えてないですね。僕は職員室に呼ばれて何度も説教されてるんだけど、その内容もほとんど覚えていない。でも思うのは、教師のいちばんの役割って良くも悪くもロールモデルみたいなところがあって、なんだか一心不乱に何かに打ち込んでるとか、あるいは教師のくせしてこんな失敗をしたとか、そういう話はよく覚えていて、それが結構、いま自分のなかで役立っていますね。

平松: 完璧な人っていないはずなんですよ。だとすれば、自分の許せる範囲とか尺度がね、いろんな人を見たり、いろんな人と接したりすることによって、それぞれの人から与えられるんじゃないかなって気がするんですね。

内田: これは僕の持論なんですけどね、教師ってそんなにパターンいらないんですよね。だいたいね、絞り込んでいくと6種類。

平松: それは新説ですか(笑)。

内田: いえいえ、だいぶん前から語ってるんですけどね。漱石の『坊っちゃん』を読んでて、わかったことなんです。あれは漱石が松山中学校の教師をやってた時代に取材した話ですけれど、あの話の舞台って、明治になって、日本の近代学制がかたちを整えた直後の話なんですね。ほんとに日本近代教育史の黎明期の話なんですよね。その段階で既に、あるべき教師の基本型は6タイプってことになってるんですよ。

平松: 『坊っちゃん』に出てくる・・・。

内田: 「狸」「赤シャツ」「坊ちゃん」、「山嵐」に「野だいこ」「うらなり」。この6人ですね。で、僕の知る限り、それから後、明治40年代から現代に至るまで、膨大な数の学園ドラマがつくられましたけども、この6類型を超える教師のパターンって出てないんですよね。すべてこの6種に収まるんです。漱石の天才は瞬間的に、初等中等教育において子どもたちが接すべき自分たちのロールモデルを直感したんですね。

 ロールモデルになるべき人間は、単一の完成された人間じゃなくて、6種類ぐらいのタイプの人物類型がある、と。それくらいは要るし、それくらいいれば足りる。彼らはそれぞれにバラバラなことを言い、違うことを目指している。そういう所に放り込まれるのが子どもにとってはたぶんいちばんいい教育環境なんだ、と。