平松邦夫×内田樹「漱石が『坊ちゃん』で書いた教師像に学ぶ」

「教育は誰のためにあるのか」とことん語ろう 第2回

 できるだけ多様な先生たちがいて、できるだけ多様な教育理念と教育技術・方法が混在し、共生している状況が、子どもの成長には好ましいんです。だって、実際に子どもたちが実社会で遭遇して、そこを生き延びなければならない状況というのは、そういうものなんですから。実社会との違いは一点だけ。それは学校にかかわる全員が子どもたちの市民的成熟を願っているということ。その一点についての合意さえあればいい。

 だから、僕は現場に自由裁量権を与えてくれとずっと言ってきたんです。それぞれの先生が自前で教育方法を工夫し、吟味して、どんどん個性的で創発的な試行ができる。そういう環境が望ましいと僕は思っています。同僚同士で、「お前のやり方は間違っている。それじゃダメだ」と廊下でつかみ合いするとかですね。それがいいんです。

 そういう中で初めて子どもたちは考えるんですよ。なんだろう、なんで学校に来てるんだろう、教育って何なんだろうって。それが、例えば全部の先生が「教育というのは自己利益のために身につけるものだ。オレの言うとおりの方法で勉強すれば高い学歴を獲得できて、その後、高い年収と高い地位が得られるぞ」って子どもたちに教え込めば、「じゃあやめる」という子どもに対して、打つ手がないわけです。

「僕は学歴なんていらない。金もいらないし、地位も名誉もいらない。家でゲームしてるわ」っていう子どもに対して、学びを動機づけるロジックがなくなってしまう。現に今の日本で起きているのは、そういうことなんです。教育目的が画一化して、教師たちの言うことが揃いすぎてきたせいで、教育からこぼれ落ちる子どもの数がどんどん増えている。
だけど、さまざまな教育観を持った先生が混在していると、ある先生はこっちから引っ張り、ある先生はこっちから引っ張り・・・ということができる。そうすると、どっかに引っかかるんですよ。

「多様性」がシステムの安全を保つ。

平松: 今の話も、まさしく「おせっかい教育論」の中にありましたよね。それぞれがそれぞれの思いで教育を展開するんだけど、「なんか見てる方向は似てるよね」っていう部分がお互いの信頼感みたいなものをつくっていくわけですけど、内田先生が今おっしゃった缶詰工場みたいなシステムが導入されてしまうと、缶詰の不良品になった人は、完全にはじかれちゃうんですよ。

 で、その缶詰の製造技術が稚拙な技術だったりすると、社会の層としては薄っぺらな缶詰しか残らない。規格外は全部はじかれてしまって。それが、いわゆる格差が拡がった社会の違う言い方なのかな、と。

 そんなシステムを初等教育という社会への入口から採用してしまうと、え、日本はこれからどうなるの?って思いますよね。仮に缶詰製造が全部うまくいったとしますね。けれど、出てくる缶詰はみんな一緒でしょ。それは怖いですよ。

内田: 生態学的に危険なんです。生態系っていうのは、生物学的多様性というのが必要なんであって、食性が違い、行動範囲が違い、営巣地が違うさまざまな種がニッチを異にして共生しているから、システムとして安定しているわけなんです。みんなが同じようにふるまう社会って、全員が同じ資源に群がって、それを奪い合うことになるから、簡単に壊れてしまうんです。