自衛隊「従軍」記。東ティモールでPKO活動を考える

山下奉文  vol.2

vol.1はこちらをご覧ください。

 自衛隊の宿営地は、東ティモールの首都ディリから少し離れた、海岸沿いに位置していた。

 痩せた山羊が彷徨い、波打ち際で牛が体を冷やしている。

 その傍らを自衛隊の給水車が通っていく。

 自衛隊の東ティモールでの基本的な任務は道路などインフラストラクチャーの整備と、各国部隊への給水活動だった。特に土木工事は、復旧のみではなく、現地の人々を雇用するとともに、建築資材や機器の使用法を習得して貰う、職業教育の要素も備えていた。

自衛隊の東ティモール派遣 インドネシアからの独立を支援する国連の平和維持部隊として、'02年3月に派遣

 旧宗主国であるポルトガルは、市の中心部の、瀟洒な邸宅に本拠を構えている。独立派とインドネシア併合派の間で激しい内戦が起こったディリの市内には、ほとんど美しい邸宅はない。国連PKOの本部ですら、なかば破壊された国連のビルなのだから。もしかしたらポルトガル統治時代の総督府だったのかもしれない。

 地域大国であるオーストラリアは、市内中心部から少し離れているが、見晴らしのよい高台に基地を構えている。

 一度、オーストラリア軍の閲兵式を観る機会があったのだが、何だかとてもカジュアルに感じた。

 ほとんどが予備軍の将校で、師団長は小学校の校長先生だという。先任将校の一人は弁護士で、携帯電話でクライアントと話をしている。

 敬礼の仕方がいい加減で、自衛隊の将校は「あれじゃ敬礼だか、降参してるんだか解らない」と呟いていた。

 とはいえ、わが国は、過去にこの土地でオーストラリア軍と戦っているのである。

 昭和十七年三月九日、オランダ領東インド(蘭印・現インドネシア)のオランダ軍が無条件降伏をした。石油資源の獲得を最大の目標としていた日本軍は今村均中将の指揮下、落下傘部隊の強襲を中核に二十日余りで、蘭印を制圧した。

 あまりにも早い、オランダ軍の崩壊に驚いたオーストラリアは、日本軍の南下を食い止めるべく東ティモールに進出した。日本側も応ずる形で進出し、オーストラリア軍を撃退、以後三年間、東ティモールは、日本の占領下にあった。

 ちょっと市街を外れると、水田を散見する。これは日本占領時代に、伝えられたものだ。従来、焼畑農業を中心としていた処に、連作障害のない農法がはじめて持ち込まれた。

かつての占領地に入った自衛隊の姿

 外見だけで軍隊の強い、弱いを語っても仕方がないけれど、一番、緊張感が伝わってきたのは、パキスタン軍だった。将校の迫力が違う。威令が行き届いているというか・・・。

 デンパサールへ飛び立つ日。私はテレビのクルーと別れて一人で空港にむかった。山下奉文の伝記執筆のための取材が入っていたのである。

 チェックインしようとすると、ロビーがパキスタンの兵士で溢れている。

「参ったな」と思っていると、目敏く私と二、三人の欧州人をみつけた将校が低く太く「シヴィリアン・ファースト!」と云い、兵士たちはあっという間にロビーの隅に整列し、私たちを先に通したのだった。

 東にインドとの国境紛争を抱え、西にアフガニスタンと国境を接しているのだから、緊張度が高いのも当然なのだけれど。

 とはいえ、自衛隊もなかなかのものだった。

 任務に精励するだけでなく、とにかく規律が厳しい。

 私用で、隊の車両を使わないところからはじまって、公私混同は、厳しく戒められている。隊員は自己管理が徹底していて自由時間でも、基地の内外をランニングしている。

 ディリでは足かけ五日、自衛隊の宿営地に滞在させて戴いた。食堂も利用させて貰ったし、風呂にも入れて貰った。

 いろいろと感心させられる事が多かったけれど、一番印象的だったのは、女性自衛官の活躍だった。

 東ティモールは、女性自衛官がはじめて参加したPKOだった。

 二十代前半の女性たちが、毎朝司令部のブリーフィングに通い、他国のスタッフと情報交換をしたり、調整に奔走している。こういう光景を見ると、自衛隊という組織の、開放性、機能性はなかなかのものだと思う。

 もちろん、男女ともにPKOに参加している自衛隊員は選ばれた精鋭だ。基本的に志願制なのだけれど、その中からさらに厳しい選抜が行われる。サマワも含めて、これまでのPKO活動で、事故が起きてこなかった一因は、そこにあるのだろう。御世話になった川又弘道東ティモール第四次派遣施設群長、陸上自衛隊一佐は、「PKOは、安全だと思われる事が、一番怖い」とおっしゃっていたけれど。

 現地の人々は、やや物足りない。物足りない、というのも失礼な話だが、撤退が近くなってくると、彼らは口々に「また助けに来てくれ」と云ったという。自衛隊員たちが、休日に近くの荒廃したサッカー場を修復した事があった。村人たちは、それを物見高く見るだけで、誰一人、進んで参加しようとしなかった。

 ヘドリー・ブルの大著『国際社会論』の精密な翻訳で識られる臼杵英一は、国際連盟の実際の運用は法律主義的に固執したものではなかったと説きつつ、大戦後の国際連合のあり方に疑義を呈している。

「国際連合の設立にあたって、積極的に侵略国を決定し憲章上の国連軍(実際は多国籍軍)を用いて鎮圧するという侵略戦争の再来に対処する発想の陰で、本稿で触れる聯盟史の前半における平和活動の成果が忘れ去られ、国連構想や憲章の中には聯盟の平和活動が取り入れられなかった。國際聯盟の活動について、当初、均衡のある評価が欠如していたことは残念に思われる。むしろ今日の国際機構の方が、機能的統合説の理想の下に、中立姿勢の維持の努力を放棄して、実際上合法性の認定の機関となり、中小国間の紛争においてさえ、議論の場を提供することはあっても、積極的調停の機関としての機能は低下してしまっているように思われる。実は、國際聯盟のこの調停機能の有力な一要素として、軍事部門を含む平和活動がすでに存在していたのである」(「PKOの起源 國際聯盟レティシア委員会」、『PKOの史的検証』軍事史学会編)

 国連が紛争等について「合法性の認定の機関」に成り下がっているという指摘は鋭いものだ。そして、現在のPKO活動の淵源は、中立、調停を旨とした国際連盟の活動のなかにこそ求めるべきだ、と臼杵氏は説いている。

以降vol.3

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