第1部完結! この国のカタチを変える清盛式"貿易革命"、夢半ばにして散る・・・平家滅亡が「貿易立国日本」を800年遅らせた?

 今回で完結する【第一部】では、「清盛の父・忠盛が日宋貿易をきっかけに巨万の富を手に入れた理由」を連載してきました。

 ここまでを読むと、いくら「平清盛は偉い」「すごい」と言っても、日宋貿易も父の後を継いだだけ、資金力があったのも家が大富豪だったから当然---つまるところ、清盛も所詮"親の七光り"ではないか・・・と思った方もいるのではないでしょうか?

日本で初めて○○○をつくったのは平清盛

 しかし、それは誤解です。

 清盛は政治力・武勇において、同時代でトップクラスの卓越した能力を発揮した人物でした。そして、こと経済・貿易に関しては、"千年に一人"といってもよいほどの、傑出した発想力・構想力の持ち主であったのです。

 清盛と他の人物とが決定的に違う点---それは何か?

 ヒントを探るべく、まずは清盛がやってきたことを見てみましょう。

1158年◆大宰府の実質的な責任者である大宰(だざいの)大弐(だいに)になり、大宰府の外港である博多に日本初の人工港「袖の湊(そでのみなと)」を築く。(*1)

1167年◆瀬戸内海の航路にあたる「音戸(おんど)の瀬戸」を開削する。(*2)

1173年◆摂津国・福原の外港である大輪田泊(現在の神戸港)を拡張し、日本初の人工島「経ケ島(きょうがしま)」をつくる。(*3)

◆これまで航路を支配してきた寺社勢力を排除し、瀬戸内海航路を掌握。航路の整備や入港管理を行う。

(*1)「袖の湊」は、現在の博多区呉服町一帯にあったと言われていますが、現在では和歌の中だけで存在した架空の港という説が有力です。さて、博多の人々は港の開発を行った平家に恩義を感じ、平清盛の長男・重盛が1179年に病死した際、霊を慰めるための祭りを行ったといいます。それが、現在の「博多どんたく」です。いまや、博多どんたくは動員数200万人を超す、国内最大級のお祭りになっています。
(*2)広島県呉市にある「音戸の瀬戸」は、本州側の陸地と離島をむすぶ海峡です。ここには「工事を一日で終わらせるため、清盛が扇を使って沈みゆく夕日を再び招き返した」という伝説が残っています。
(*3)経ヶ島自体が完成したのは、清盛の死後、1196年のことです。皮肉なことに、これを完成させた者は、重源(ちょうげん)。平家が燃やした東大寺を復興させたことで有名な僧侶です。

 いかがでしょうか。

 日本初の人工港・人工島という先進的な技術を導入し、「博多~神戸」間の瀬戸内海航路を積極的に開発していった様子がうかがえると思います。

 しかし、いずれも大規模な工事で、大変な苦労と費用のかかるものでした。

 清盛は一体なんのために、困難をおして瀬戸内海航路を開発したのでしょうか?

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