後世に及ぶ影響力を残した、松下政経塾という優れた「投資」

松下政経塾1979年設立。写真は前年9月の設立会見で「人材育成を」と語る松下幸之助(右)

vol.8 はこちらをご覧ください。

 東海道線の辻堂駅に、毎週---といっても、休暇中は別だが---何度か降りるようになって、もう十五年になる。慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパスに通うためだ。

 大概の教員、学生は小田急線の湘南台駅を利用している。辻堂駅から大学までの距離よりだいぶ短い。半分くらいだ。それでも辻堂から通うのは、家が品川近辺なので東海道線が便利だからだ。それに東海道線はグリーン車があるから、移動中仕事が出来るというメリットがある。

 松下政経塾が辻堂にあるという事を識ったのは、大学に通うようになってからかなり後だった。もちろんその存在は識っていたけれど、それが辻堂という湘南のなかでもパッとしない(失礼)街、東海道線の快速(アクティーという奴ですな)が止まってくれない駅にあるとは思わなかったのだ。辻堂にある事を識ったのは、政経塾から講演を依頼されたからだ。それまで識らなかったのだから誠に迂闊極まりない。

「松下政経塾の原型」昭和塾が輩出した人材

 講演で何を話したか、よく覚えていない。ただ塾舎のシンとした感じ、塾生たちの行儀のよさが印象的だった。とはいえ、塾生たちの印象は、私には馴染み深いものだった。PHP研究所の編集者諸氏の物腰にきわめて良く似ていたのだ。丁寧で慇懃で実務に優れている・・・というような。その点では、松下幸之助の感化力というのは世代を超えて効くものといってよいかもしれない。松下は、政経塾を設立した意図をこう語っている。

< これはあくまでも僕が長年やってきたPHP運動の延長線上にあることなんですわ。戦後、僕は公職追放とか、財閥家族の指定などで苦しんでいたときに、"人間の道"というものは何であるかということを考えるために、PHP研究所を作り、いろいろと考えてみたんですね。

 これは(公職追放指定など)仕事を取り上げられてしまった僕の逃避の道でありまた悶々の情の発露でもあったんだが、この仕事に打ち込んできたおかげで、体ももったんだと思いますわ。これがなかったら、いまどきどうなっていたかわからんですよ。そのPHP運動の中でつくづくと考えたことは、やはり政治がすべての中心になければならんということですわ >(「八年間暖めた"松下政経塾"構想」『財界』1978年10月15日号)

 PHP運動は、松下幸之助が公職追放にあい、経営に携わる事が出来なくなった時、「仕事を取りあげられてしまった僕の逃避の道でありまた悶々の情の発露」となった、平和・幸福・繁栄を追求する運動であり、その主体として同研究所が設立された。

 とはいえ、その思想の根本は、戦前の「水道哲学」と通底するものであり、その流れがPHP運動によって一企業の枠から外に溢れ、そして松下政経塾に至ったということになるのだろう。

 松下政経塾については、特に出身者の政治家にたいしてさまざまな毀誉褒貶がある。けれども後世にたいして、いかに大きな影響を与えるか、という視点から考えれば、これほど巧妙で、有効な「投資」はないのではないか。

 現在、松下政経塾出身の国会議員は、衆参合わせて三十八人、県知事が二人である。今後もおそらく増えていくだろう---第一期塾生から二十四期までほぼ毎年一人強増えている---から、その影響力は、かなりなものになるだろう。

 松下が「投資」したのは、七十億円だった。昭和五十三年当時の七十億円は、かなりの額だが---その三年前、宝くじの一等が一千万円になり、大きな話題となった---それにしても、これだけの影響力を後世に及ぼし続けているのだから、松下の投資の才は---もちろんそれは理念のバックボーンがあっての事だけれど---途轍もないものだ。

 近代以降、松下よりも富裕だった実業家は何人もいたけれど、これだけ優れた「投資」をした者はいなかった。ある意味で松下の影響力はその死後、いよいよ増大している、とすら云えるだろう。

 近衛文麿が宰相となる日に備えて、一高での同級生、後藤隆之助が昭和八年に組織した昭和研究会は史上、名高い。学者、官僚、実業家、軍人などから有為の人物を集め、国内政治や外交政策の諸問題を検討するとともに、政策立案の準備を進めていた。

 蝋山政道、前田多門、河合栄治郎、東畑精一、後藤文夫、三木清、尾崎秀実、有田八郎、風見章、吉野信次、佐々弘雄、林達夫、清水幾太郎など錚々たる人物が、一堂に集い、いくつもの作業部会をたちあげて、議論を重ねた。いかに、当時、近衛に対する期待が高いものだったかが想像される(その期待は、盧溝橋事件に際しての拙劣な対応により、急速に萎んでいく事になるのだが)。

 昭和十二年、研究会のメンバーだった平貞蔵が、これだけ人が集まっているのだから、人材育成の場を作ってはどうか、と提議したのをきっかけとして、昭和塾が設立された。

 講義は研究会の会員たちがチューターを務めるというスタイルで約百五十人が出講した。

 昭和十三年十一月に第一期生の選考が行われ、百八十五人の応募者の中から、六十人が合格した。選考は面接を中心に行われ「科学には人格があるか」といった奇抜な問いに答えさせられた。四期にわたる合格者の内訳は、東大百十一名、早大十九名、東京商大十二名、慶大十一名、東工大九名、京大七名で、東大生、同卒業生が六割を占めていた(『昭和塾』室賀定信)。

 当代一流の講師の下、< 塾生、塾友は仲間で討論し、疑問があれば講師に問い、納得が行かなければ他の講師に教えを乞うというように、納得するまで追求することができた >(同前)。

 昭和十四年には、塾生を満州班、中支班にわけて大陸旅行を行っているがその内容は例えば、満州班は朝鮮で万歳事件の首謀者を訪ねるといった破天荒なものであった。

 わずか四期であるけれど、昭和塾は錚々たる人物を輩出している。政界では小川平二、永末英一、橋口隆、後藤正夫が国会議員になっているし、財界には河合良一、稲葉静也、武田満作、武田豊、西川正次郎、根津嘉一郎がおり、官界には安倍勲、井上啓次郎、川出千速、広瀬久重がいる。

 アカデミズムには、大来佐武郎、足利末男、崔文煥、武田隆夫、丸安隆和らが出た。わずか四期の成果としてはかなり立派なものだろう。

現代ビジネスブック 第1弾
田原 総一朗
『Twitterの神々 新聞・テレビの時代は終わった』
(講談社刊、税込み1,575円)
発売中

amazonこちらをご覧ください。

楽天ブックスこちらをご覧ください。

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら