なぜ僕たちはプロ野球で通用しなかったのか…

才能か、努力か、それとも・・・・・・
週刊現代 プロフィール

 田中はプロ1年目から一軍出場を果たし、翌年にはレフトの守備や代走要員として一軍に定着しかけたが、'05年からは二軍に甘んじ、翌年には戦力外通告を受けた。田中本人は、プロ野球生活を顧みるとき、ある先輩野手のことを思い出す。'00年に首位打者に輝いた金城龍彦だ。

 その年の序盤、野手に転向して2年目だった金城は、突然レギュラーを獲得する。田中が当時を回想する。

「金城さんがレギュラーになるきっかけとなった巨人戦での打席、実は僕のバットを使っているんです。二人ともなかなか試合に出られない時期でした。その試合でヒットを打って、次の試合も代打に呼ばれて、僕のバットで見事に打った。3試合目に進藤(達哉)さんがケガをして、三塁の定位置を獲得したんです。

 そういうターニングポイントでチャンスを掴めるのか掴めないのかなんでしょうね。たぶんあの頃の金城さんは、目を瞑っても打てていた気がする。それだけ努力をしていたんだと思います」

 同じタイプだと思っていた金城が、目の前で一流選手への階段を突然登っていく。田中の中に獏とした焦りが芽生えていた。しかしそれは、彼の運命を変えることは出来なかった。

プロになるのが目標ではダメ

 当時、田中が本職としたセンターのポジションには波留敏夫がいた。田中は波留からポジションを奪うことができなかったのだ。二人の違いについて日野が言う。

「二人ともプロとしては小柄で体つきも似ていました。ただ、中身の評価は波留の方が高かった。波留はハングリーで、目をギラギラさせていましたから。

 一方の田中はいつもクールでスマートにプレーしようとしていました。それでうまくいけば誰も文句は言いません。でも、そのままでは波留からポジションを奪えないとわかったら、もっとなりふり構わずやってもよかったのではないかと、思うんです」

 二人の能力に大きな差があったわけではない。ただどちらを使いたいかというと、勝利への飢えを漲らせた熱血漢に、自然と票は集まった。

「田中は足も速かったし、捕球の技術も申し分なかった。ただその俊足を活かすだけの盗塁の技術には、まだ鍛える余地があった。盗塁するためにはランナーに出なくてはなりません。そのためにはバッティング技術も必要になる。一軍に定着するために、そうしたトータルな技術を田中にはもっと磨いてほしかった」

 甲子園に計3度出場し、'05年のドラフト1位で千葉ロッテマリーンズに入団した柳田将利(23歳・現NOMOベースボールクラブ)も、能力を発揮できぬままグラウンドを去った投手の一人だ。元千葉ロッテ二軍監督の古賀英彦は、初めて柳田のピッチングを見たときの驚きを鮮明に記憶している。

「彼の投球を見て、さすがバレンタイン(監督=当時)が見込んだドラフト1位、モノが違うと思いました。あれだけの身体能力をもった選手はまれですから」