「密貿易」だけで儲かるとは甘すぎる!
清盛の父・平忠盛はいかにして巨万の富を得たのか?

 さて、前回、日宋貿易における輸出・輸入・海運はすべて宋商人が仕切っていた、という話をしました。

 貿易のリスク、リターンともに宋商人に帰属すると思われるこの状況のなか、平家はどのようにして「貿易で巨万の富を得た」のでしょうか?

 実は、輸入品の日本での販売を宋商人が仕切っていたとしても、彼ら以外の者が莫大な利益を得る方法が、一つだけあります。

 それは、独占貿易です。

 独占---すなわち、宋商人が輸入品を卸す相手組織が日本に一つしかない状態、ということです。これは、その組織が国内マーケットにおける独占販売権を得ることに等しく、仕入価格も販売価格もある程度思うがまま。

 つまり、そこで大きなマージン(利幅、利ざや)を付けることができれば、その組織は莫大な利益を手に入れることができます。

 前回、貿易で巨万の富を得た例として、足利義満、薩摩藩、ポルトガル、オランダなどを挙げましたが、これらが成功した理由もやはり、独占貿易体制を築けたからなのです。

 例えば、薩摩藩の場合、侵攻による征服と江戸幕府の承諾により琉球王国を支配したことで、中国・清との独占貿易(香辛料・絹製品・生糸・鮫皮などの輸入)を行うことができました(*1)。

 また、大航海時代のポルトガルの場合、インド洋沿岸に要塞(モザンビーク、コロンボ)を築き、要衝となる都市(ゴア、マラッカ、ホルムズ)を占領したことにより、香辛料の貿易を独占しました(*2)。

 つまり、軍事力や権力を行使することで独占貿易体制を築き、自己の利益を減少させる自由競争を徹底的に排除することが、貿易で巨万の富を得るための一つの方法なのです。

朝廷の独占貿易のせいで宋商人が餓死??

 さて、当時の貿易はどうだったのでしょうか。

(*1)ただ、薩摩藩の領土の大半が水持ちの悪いシラス台地で、作物があまり取れないため、貿易の利益も吹き飛ぶほど慢性的に赤字財政でした。
(*2)この延長線上に、種子島への鉄砲伝来や、ザビエルによるキリスト教の布教活動があります。
『経営者・平清盛の失敗 会計士が書いた歴史と経済の教科書』
著者:山田 真哉
⇒本を購入する(AMAZON)

 実は、当時も独占貿易体制は存在していました。

 しかし、独占していたのは平家ではなく、朝廷です。

 平安前期、菅原道真による遣唐使の廃止(894年)の後も、宋や高麗などの民間商人が日本を訪れていました。その輸入品の買い取りを朝廷が公的に独占していたのです。

 その仕組みはたいへん朝廷本位のもので、まずは朝廷がすべての輸入品を吟味し、目ぼしいものは買い漁り、残った品なら民間が買ってもいい、というものでした。

 また、朝廷による買取価格自体も、相場よりも安い値段でした。

 さらに、価格だけでなく、決済方法も朝廷にとって都合のよいものだったのです。

 具体的には、外国船の来航が許可されたのは国際貿易港である博多までで、そこから先については、まず博多で京都の朝廷から来た役人や大宰府(外交と防衛を管轄する役所)の役人が輸入品を受け取ります。

 そして、博多に外国商人を待たせたまま、役人が京都に輸入品を持って行きます。それから、今度は朝廷の出納(現金の出し入れ)を扱う役人が博多まで購入代金を持って行って、ようやく外国商人に支払う、という流れでした。

         (博多)          (京都)              (博多)
【モノの流れ】 外国商人→役人---→朝廷
【カネの流れ】                朝廷→役人------------→外国商人 

 ところが、平安中期には朝廷にお金がなくなり、大宰府が代わりに代金を払うことになります。

 当然、しばらくすると大宰府にもお金がなくなるので、外国商人に対し購入代金をなかなか払わないようになります。

 その結果、輸入品を受け取ったのに「奥州から砂金が献上されない」という理由で3年経っても代金を払わず、博多で待たされた宋商人のなかから餓死者が出る、というとんでもない事態も起きます。

 このような不利益を強いられる朝廷との貿易に対し、外国商人の間には不満が高まっていきます。

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら