色褪せぬ傑作。
そこに映された「女」の、悲しみと怒り---
溝口健二Vol.4

vol.3 はこちらをご覧ください。

 昭和九年九月、日活を退社した永田雅一(後の大映社長)は、第一映画社を創立した。伊藤大輔、溝口健二、犬塚稔らの監督たち、山田五十鈴、原駒子ら女優、それに作家として川口松太郎が参加した。

 溝口は、第一映画社で『折鶴お千』(原作は泉鏡花『売色鴨南蛮』)、『マリヤのお雪』(原作はモーパッサン『脂肪の塊』)、『虞美人草』(原作夏目漱石)、『浪華悲歌』、『祗園の姉妹』の五本を撮影している。五本のうち四本が山田五十鈴の主演であり、特に溝口自身が原作を書き、依田義賢が脚色を担当した最後の二作品は今日みてもまったく色褪せていない傑作である。

 まず、『浪華悲歌』。薬品会社に電話交換手として勤めている村井アヤ子(山田五十鈴)は、父親が勤務先で横領をした事で悩んでいる。恋人は頼りないなか、社長(志賀廼家弁慶)の口説きを受け入れて囲われ者になってしまう(この妾宅のデザインがすこぶるモダンで、当時の大阪が東京に対して維持していた先進性が確認できる)。文楽で社長夫人と偶会するといったアクシデントのなか、東京の大学に通っている兄の学費もアヤ子が工面しなければならなくなってしまう。

 社長が寄りつかなくなったので、仕方なくアヤ子は知り合いの株屋(進藤英太郎)を誘惑して金を奪う。かつての恋人を呼び出し、自分のした事---社長の世話になっていた事、金を取った事を告白する。「あて、このままでいたら、どこまで悪うなるか解れへん。そう考えたらうちガ可哀想で可哀想で・・・」。初犯という事でアヤ子は釈放されるが新聞沙汰になる---刑事と記者とのやりとりが面白い---。そして家に帰ると、窮地を救ってやった父と兄はアヤ子を拒否し、家を追い出すのだった。家族の犠牲になりながら、捨てられる女性という図式は、悲劇とはいえ互いの存念を燃焼させた『瀧の白糸』より格段に深刻なものになっている。

女郎買いを許していた役者の女房

 『祗園の姉妹』は、祗園乙部---華やかな甲部に対し娼妓が働いている---で生きる姉妹、梅吉(梅村蓉子)とおもちゃ(山田五十鈴)の姉妹の物語である。世話になった旦那が破産した後、引き取って面倒を見ている義理堅い古風な姉。一方、シュミーズ姿で欠伸をしながら登場するおもちゃは「男の人は敵や」、「金でなぐさみものにしたのや」「取るもん取るのはあたりまえや」と、激しい敵意を男全般にたいして抱いている。

 おもちゃは、画策して破産した旦那を追い出し、羽振りのいい骨董商を姉にあてがおうとする。さらに呉服屋の外商から反物を召し上げ---姉に新調してやるためだったのだが---、乗り込んできた主人を籠絡してパトロンにしてしまう。

 旦那と再会した姉は、おもちゃの計略を知り家をでる。おもちゃは、馘首された外商の計略にはまり、タクシーで連れ去られ、転げ落ちて大怪我をしてしまう。「男をあなどりすぎるからこんな事になるのや」とたしなめる姉に、おもちゃは「わては負けへん」と云う。病床に横たわったおもちゃは、「芸者なんて、ないほうがええんや」と呪詛の言葉を重ねる・・・。

 京都弁の辛辣な、まったくはんなりしていない調子---「どうしたんねん、目から不景気な水だして」---は心地よく、細部まで掬いとられた露地の風情は滴るようだ。

 父と兄のために犠牲になりながら報われない『浪華悲歌』のアヤ子の悲しみと、「男は敵」と断言するおもちゃの怒りは、まったく異なるものだ。悲しみと怒り。一体どちらが癒えやすいのだろう。

 脚色を担当した依田は、公開後数年たっておもちゃのモデルとなった人を茶屋に呼んだという。恰幅のいい美しい人だったが、足をひきずっていた。若い頃、鱶に噛まれたという。さすがにゾっとしたそうな。

 『祗園の姉妹』は昭和十一年度キネマ旬報ベスト・テン第一位、『浪華悲歌』は同三位に輝いた。

 戦後、昭和を代表するバイプレーヤーとして、そしてまた独立プロダクションの嚆矢である近代映画協会の設立メンバーであり、エッセイストとしても名をなした---というよりも、現在も多くの読者がいる殿山泰司は、昭和十六年にどういうわけか召集解除になり、京都帷子辻の興亜映画のスタジオに潜り込んだ。興亜映画は松竹系の撮影所である。

 戦時体制となり、映画の製作本数が制限されていたので、役者は暇だった。田坂具隆の『母子草』と内田吐夢の『鳥居強右衛門』くらいしか覚えていないという。毎日のように、龍安寺に行き、石庭を眺めていた。当時、龍安寺はさして有名ではなく、訪れる者もほとんどなく、当然、入場料もとられなかった。

 「日常生活の上にも薄ら寒い風が、この京都にも吹きまくっていた。女は肉や野菜を買うにも行列をした。食うものは言うに及ばず、衣料切符制なんてのも実施され、衣料品もカンタンに買えなくなったぜ。戦争だもんなア。おまけにおれたちは、資本主義社会の天皇制国家の人民だもんなア。人民はいやや。今度生れてくるときは天皇に生れてこよう。

 おれは不自由な酒を苦労して飲むことに苦労したり、きのうはアチラきょうはコチラと、女郎買いばかりやってたけど、女房のように一緒にいる女に、あまり文句をいわれた記憶がない。この野郎はいずれ遅かれ早かれ戦地へ行って死んでしまうんだ、と、同情のあげく放飼いにしていたのかね。もっとも戦前には、あんたアお女郎買いや芸者あそびしちゃ駄目よウ、なんてタワゴトをいう役者の女房は存在しなかった。もし女房にそんなこといわれたら、ココロある役者はみんな自殺した」(『三文役者あなあきい伝 PART1』)

祇園 溝口が『祗園の姉妹』で描いた京都・祗園の乙部界隈を、娼妓たちが闊歩していた

 もちろん、タイちゃんの事、京都の諸事情については事細かに語っている。京都の祗園乙部と宮川町は、吉原や飛田、島原のように専属の娼妓がいるのではなく、置屋からやってくるシステムになっているという。

 「置屋制度であるから、つまりその女郎屋自体には、おれたちの娼妓はんは存在してないのであり、祗乙にも宮川町にも(中略)郭を形成する塀のようなものや、それらしき物は何もなかったのだ。だから何というかな、ナツカシイというべきか、イヤラシイというべきか、胸がワルクなるというかヨクなるというか、筆舌につくしがたいような、あの遊郭特有のヘンなニオイが、この町にはなかった」(同前)

 遊郭は「曲輪」と呼ばれるように娼妓たちを塀のなかで管理しているが、祗園園乙部と宮川町の女たちは、世間を闊歩していた。

週刊現代2011年9月10日号より

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