早稲田大学野球部監督 應武篤良「私のピッチャー論」

3人のドラフト1位投手を送り出した伯楽が、
6年間の監督生活を振り返った

「色白の華奢(きゃしゃ)な身体に、あのつぶらな瞳。すごい選手、という風貌でもないのに人を強く惹きつけるものがあった」

 應武は新日鐵君津監督時代に松中信彦(ソフトバンク)や渡辺俊介(ロッテ)、早大では越智大祐(巨人)らをプロ野球界に送り出してきた。

「彼らは入部してから実力をつけて期待の星となっていった選手。斎藤の場合は、入学の時点で制球力が良く、変化球を多種持っていた。甲子園の優勝投手で、既に磨かれたダイヤモンド。それを大学の4年間でさらに輝かせていくという作業は、これまでにない経験だった」

 應武は斎藤を1年春の開幕から先発として起用し続けたが、その一方で球数制限を設けて100球をめどに降板させた。焦らず大切に育てていこうというのが應武の4年計画だった。斎藤は1年春のリーグ戦で4勝を挙げて優勝に貢献すると、大学選手権ではチームを33年ぶりの優勝に導き、MVPまで獲得した。大学日本代表に名を連ね、秋のリーグ戦も制覇。大学生活の船出としてはこれ以上ない1年を過ごした。だが應武は、必ず成績が伸び悩む時期が来ると分かっていた。

「継続してウエイトトレーニングしても伸びない時期があるのと一緒で、努力を続けていても結果や数字が伴わない時期は必ずあるものなんです」

 それが3年生の秋だった。ストレートの球速が130km/h台しか出ずに、リーグ戦防御率も3.08と過去最低。早大は最終節まで優勝の可能性を残していたが、その試合で斎藤は打ち込まれた。

「新聞報道などで、不調の原因として甲子園の時のフォームと今のフォームを比較され、評論家の皆さんが欠点を指摘する。そういったものを目にして、斎藤も負のスパイラルに陥り、直さなくてもいい部分まで直そうとしてしまった」

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 当時の斎藤は、投球時にステップしていく左足が半足分ほど踏み込み過ぎていた。その分、左のヒザに体重が乗らなくなり、必然的に腕が打者方向に伸びていかない。それでは力のあるボールが投げられない。應武と斎藤は歩幅の修正にとりかかった。

 だが、それ以上に斎藤に伝えたのは、投球に対する気持ちの持ち方だった。

「0点に抑えても勝てないことはあるし、味方打線が相手打線を上回って初めて勝ち投手になる。当たり前のことではありますが、"一人の力だけじゃ勝てない"というのが私のピッチャー論なんです。その時斎藤は、非常にネガティブになっていた。また、これはずっと、右肩に負担がかかるフォームを修正できずに悩んでいた大石、ケガに苦しみ続けた福井にも伝えていたことですが、『今を我慢すれば必ず良いことが待っている』とだけは何度も話していました」

 この4年の間に斎藤がぶち当たった最大のカベ、それはストレートの球速だった。4年春まで高校時代の最高速149km/hを更新できず、150km/hに届かない。