〔新聞の現在と未来〕政治だけでなく、ジャーナリズムにとっての、一つの危機が訪れている

 戦前、日本の政治家は、官僚や軍人、実業家、地方の素封家などがほとんどであった。選挙権、被選挙権について、納税額などの制限が加えられていた事を考えれば、無理もないことだ。

 にもかかわらず、代議士の少なからぬ部分をジャーナリストが占めていた事は、現在に比して、特筆すべき事であろう。

 戦前の政界とジャーナリズムは、きわめて緊密な関係をもっていて、ジャーナリズムは国政への人材供給の有力な源であった。また、有力な政治家は、進んで新聞社経営に携わろうとしたのである。

 首相経験者だけをとっても、報知新聞の経営に関わっていた大隈重信、中江兆民の求めにより東洋自由新聞の社主の座についた西園寺公望(きんもち)、郵便報知新聞、大東日報の記者をへて、一時官途についた後、大阪毎日新聞の社長となった原敬。

戦後の総理で、ジャーナリズムでの経験を活かした首相はいない

 高橋是清(これきよ)は、東京日日新聞の外信記事に関わっていたし、加藤高明は東京日日新聞の社長を務めている。そして、戦前最後の政党内閣の総理であった犬養毅(つよし)は、郵便報知新聞の記者として西南戦争に従軍したのを皮切りに、東海経済新報、朝野新聞などで活躍した筋金入りの新聞記者であった。

 一方、戦後の総理で、ジャーナリズムでの経歴を政治家として活かした首相はまったくいない、と云っていい。

 ジャパンタイムズの社長であった芦田均、東洋経済社長だった石橋湛山(たんざん)、朝日新聞の記者であった細川護熙(もりひろ)、産経新聞記者の森喜朗(よしろう)という四人の総理が記者出身である。

 芦田と石橋は、たしかにジャーナリストとしては大きな足跡を残しているが、総理大臣としての任期はごく短いものだった。芦田は、片山哲の後継として総理の座についたが、昭電疑獄でわずか七カ月で倒閣されているし、石橋内閣にいたっては、体調不良のために二カ月で辞任を余儀なくされている。

 細川内閣は九カ月、森内閣は一年続いたが、いずれにしろ、細川、森両氏を「ジャーナリスト」と見る国民はほとんどいないだろう。二人とも大学を卒業した後に、社会勉強といった意味あいで新聞社で短期間働き、政界に転じている。ジャーナリストとして注目を集めるにはほど遠い経歴だ。多少の人脈を培うには、役だったろうが。けれど、こうした戦前と戦後の国政における新聞記者の存在感の違いは、今日の政治よりもむしろ、新聞を見る上での視点を提供しているように思われる。

 戦後の政界が、戦前と著しく異なるのは、基本的に当選回数を重ねていくことで、序列が上り、ポストを獲得していく仕組みが確立されていることだ。

 三井物産のやり手支店長だった森恪(かく)が、いきなり政友会の有力領袖(りょうしゅう)となり、田中義一内閣の外交政策を担うなどというダイナミズムは、戦後には存在しえない。政界で、重きをなしたければ、なるべく早く国政に打って出て、当選回数を増やす事が、何よりも大事という事になる。

 京都府議会議員を長く務めた後、国政に転じた野中広務氏について、田中角栄が「もう十年若ければ、首相候補だ」と語ったのは、当選回数という金城湯池(きんじょうとうち)の壁を前提としての事であろう。

 こうしたシステムが、維持されてきたのは、何と云っても冷戦下、日本の政治が大きな課題と取り組む必要がなかったからである。戦前のように、戦争に直面する事もなければ、激甚な不況や凶作にみまわれる事もなかった。西側の一員という、安定した立場があったために、国の大きな舵取(かじとり)をする必要もなかったからであろう。

 政治家の当選回数を基本とする体制は、企業の年功序列と同様に、戦後日本の繁栄においては、ある程度、合理的だったのである。

 けれども、このシステムが定着すればするほど、それと同時に二世、三世が国政に挑むようになり、たいした世間知もなければ、仕事上での経験もない人間が、国政でキャリアを積み、枢要な地位を占めるようになっていく。

 平成年間に入ってからの、明らかな政治の劣化は、昭和戦後期の安定を支えた機構の負の遺産だと云う事が出来るだろう。冷戦終結後二十年たっても、冷戦下の人材登用方式から、日本の政治は脱却していない。

 民主党の大勝により、ついに当選回数を基盤とするシステムは終わるのか、と期待したのだが、小沢一郎幹事長の言動を見るかぎり、そのような期待を持つ事は出来ないようだ。

 小沢氏自身が、小泉純一郎元総理と同様の世襲議員であり、大学卒業後、一般企業なり官庁なりで働く経験を経ず、国政に出た人間だ。選挙や政治闘争における苦労は重ねたに違いないが、かつて師事した田中角栄のように一私企業の経営者として働いた事はない。そんな小沢氏にとって、当選回数こそが、政治家をはかる最大の物差しである事は、動かし難い前提という事になるのだろう。

新聞記者出身のかつての政治家たち
(上から)原敬、犬養毅、中野正剛、緒方竹虎

 現在、衆議院だけで、新聞社出身の議員は、十六人いる。そのうち、中川秀直氏など当選五回以上が九人であるから、一つの勢力をなしている、と云い得るだろう。もっともテレビ関係者(キャスター等も含む)が十九人という事を考えれば、そんなに大きな数ではないかもしれない。

 だが問われるべきは、質であろう。

 原敬、犬養毅は、云うに及ばず、緒方竹虎、中野正剛(せいごう)など、戦前のジャーナリスト出身の政治家は、記者、経営者としても敏腕でならした上で、政治家としてもきわめて大きな存在感を持ち、実際、大きな仕事をなし遂げたのである。中野正剛は、東條英機首相の下で、自死を余儀なくされ、緒方竹虎は、鳩山一郎の後任の座をほぼ手中にしながら、病魔に倒れたが、二人とも戦争を夾(はさ)んだ動乱期において、政治家として職責を果たした事は疑いえないだろう。

 しかし、今は、そうした卓越した言論人が政治家になっていない。

 あるいは、逆に、こう問うべきなのかもしれない。なぜ、日本の、優れた、業績もあれば見識もあるジャーナリストは、国政を目ざさなくなってしまったのか、と。

 おそらく政治だけではなく、ジャーナリズムにとっても、一つの危機なのではないだろうか。いつか、国政の一端を担うという意識で第一線の記事を書く、というような意識を、責任感を、新聞記者が失ったのは何時なのだろうか。

 あるいは、こう問うてもいい。なぜ、渡邉恒雄氏は、政治家に成らなかった。あるいは成ろうとしたが、成れなかったのか。

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