原作・泉鏡花。
脚本なしで撮影が強行された「傑作」の舞台裏
溝口健二Vol.3

vol.2 はこちらをご覧ください。

 大正十二年、第一作「愛に甦へる日」を撮ってから十年の修業の後、はじめて溝口健二は、日本映画史に残る傑作をものにした。『瀧の白糸』である。昭和八年、キネマ旬報のベスト2に選ばれた。

 原作は泉鏡花の『義血侠血』。当時、お姫様女優として絶大な人気を得ていた入江たか子が主演し、制作も入江のプロダクションが行った。

 水芸の芸人、水島友が、奇縁により元士族の馬丁、村越欣弥と知り合う。友は、村越に学費を送る事を約束するが、一座は次第に衰微し、ついに高利貸の脅迫の下、貞操を失った上に画策により借りた金も強奪されてしまう。半狂乱になった友は高利貸を殺し、金を持って東京に向かう・・・。

 入江たか子の、当時としては長身でボリュームのあるプロポーションが画面を照らすように撮られており、岡田時彦演じる欣弥の白皙とあいまって稀有な映像美を作りだしている。もっとも撮影を担当した三木茂は、溝口が脚本なしに撮影を強行したので、大いに閉口したという(『瀧の白糸』はサイレント映画だった)。溝口を問い詰めて、『義血侠血』が原作だと教えてもらって、漸くストーリーを呑み込んだ。

敵国に万歳を叫ぶゆとりの時代

 しかし、撮影現場は大変な熱気だったという。

「第一ね、昼の休みっていう時にね、一人もスタジオの外へ出ない、入江なども全然出ないですよ、岡田は具合が悪いから、ステージの中に寝台持ってきてあるんだ。寝台で休んでね、病、相当悪くなりかかっていたからね。この熱気というものが、わからんわけがない、皆わかっている。皆にわかってることは、僕に反映するよ。こうしてま、出来ましたよ。これは古今未曾有のできでしたなあ」と製作者の渾大防五郎は語っている(『ある映画監督の生涯』)。

 『義血侠血』は、不思議な命運を辿った小説である。明治二十七年十一月一日から同三十日まで読売新聞に「なにがし」という署名で掲載された後、翌年四月に春陽堂から単行本『なにがし』として出版された。同書には尾崎紅葉と鏡花の名前が連署されているが、奥付は紅葉名義だった。以後、『なにがし』は、明治三十四年までに五刷を重ねた。紅葉の死後、明治四十三年になってはじめて『鏡花集第一巻』に鏡花の作品として収録されている。

 弟子の作品を師匠が自分の物として発表することは、明治どころか昭和初期まではたいして珍しい事ではなかった。師匠がその名前を貸してやる事は、ある種の「恩恵」と捉えられてさえいたのである。

 明治生命保険相互会社の創業者、阿部泰蔵の四男として生まれた阿部章蔵は、明治生命に勤める傍ら、水上瀧太郎というペンネームで作家活動を行い、『三田文学』を中心に小説を発表していた。

 水上は、泉鏡花に心酔していた。「小学時代に『誓之巻』を読んで以来、先生の作品によって、自分はこの世に生れて来た甲斐のある事を痛感した」(『貝殻追放抄』「はじめて泉鏡花先生に見ゆるの記」)というのだから只事ではない。

湯島天神 泉鏡花の小説の舞台ともなった境内(東京・文京区)には、彼の揮毫した筆塚が残る

 留学中には、久保田万太郎に頼んで、鏡花の新刊の全てを購入して貰っていた。

 瀧太郎を鏡花の家に連れて行ってくれたのも、万太郎であった。

 「あらためて久保田さんに紹介されて御挨拶をしたが、その時不思議に思ったのは、泉先生のおじぎをなさる時の手つきだった。両手とも拇指と他の指で軽い輪をこしらえ、甲の方を畳につけて頭をさげるのである。これも後で知ったのだが、極端なきれい好きでかつもろもろの黴菌を誰にも増してこわがる先生は、畳の上に手をつく事を避けておられるのであった。/(中略)東向の二階の縁側に近く、硝子のはまった障子にぴったり寄せた小机に、裸のままの硯と、筆が一本のっていた。

 それが先生の御仕事をなさるところで、ちいさい机は紅葉先生の遺品だとうかがった。/驚いたのはこの室の兎だった。違棚にも、本箱の上にも、小机の上にも、数限りなく、耳をつったて、眼をくるくるさせてかしこまっている。手焙がある、状さしがある、文鎮がある、香水の瓶がある、勿論おもちゃは多勢である。陶器のもある、木彫のもある、土細工もある、紙細工もある、水晶のもある、硝子のもある、あらゆる種類の兎公だ。『女仙前記』や『後朝川』のような兎の働く小説のあるのも無理はない。

 先生はステッキの頭にさえ、小村雪岱さんの図案にもとづく銀の兎をつけて散歩の御伴を仰せつける。/先生は話上手だ。少しかすれた声が座談には持って来いで、紅葉先生御在世の頃の事をおたずねすると、当時の文壇の有様や、作者の話をして下さる。水府の箱を膝のところに引つけて、合間々々に吸われるが、とんと吸殻を灰に落して煙管を手から放す時は、必ずその吸口に千代紙でこしらえた赤坊の小指ほどの筒をかぶせる。これもやはり黴菌よけで、敢て煙管と限らず、鉄瓶の口にもかぶせてある。もとより奥さんの御細工である」(同前)

 だが、瀧太郎は文雅に耽溺する作家ではなかった。企業経営者でありながら、ジャーナリズムの頽廃、軍人、官僚の横暴を厳しく批判する潔癖と責任感を備えていた。

 たとえば、京都帝国大法学部教授の市村光恵の話。水上はロンドンから横浜に帰る船で市村と一緒になった。当時、第一次世界大戦の最中だったが、市村は大のドイツ贔屓でその主義をけして曲げようとしなかったという。

 「日本はその時独逸を敵として戦っているというのに、この博士は大戦の結果は必ず独逸が勝利を得、英仏露の聯合軍が敗北すると確説し、或時は英人を集めてその手に手に杯を持たせ、麦酒をつぎ、円陣を作り、自分はその中央に立って、独逸皇帝万歳を叫んだ。聯合軍の万歳が叫ばれるものと予期していた英吉利人どもは、あっけにとられて為す所を知らなかった」(同前「独逸皇帝万歳」)

 それから二十二年後、支那事変下の世相を顧みて、水上はこう書いている。

「当時の世の中には何といってもゆとりがあった。英吉利こそは同盟国であり、共同策戦にあたっているというのに、当面の敵独逸皇帝の万歳を、英吉利人及我が海陸軍人の面前において叫び、周囲の人々はこれを笑って済ませたのである。もしも今日英吉利皇帝の万歳を叫ぶものがあったと想像して見るがいい。狂人と認められれば幸いで、正気の沙汰と考えられたら、非国民か売国奴として、忽ち袋叩きにあうであろう」(同前)

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