松下幸之助 vol.5

ついに日中開戦。松下電器も平和から軍需への転換を強いられる

vol.4 「小林多喜二の志にも似た、「水道哲学」の久遠の理想」はこちらをご覧ください。

 昭和十二年七月七日、北平(当時、国民政府の首都は南京に置かれ、北京は北平と改称されていた)南西の永定河にかかる蘆溝橋で、日本軍と国民党軍が衝突した。

 日本側は、義和団事件後締結された辛丑条約によって保障された駐兵権に基づいて、同地に展開していたが、中国側からの発砲を受け応戦した。

 当初は、小競り合いですぐに終熄に向かうと見られていたが、現地での折衝を無視して、頭越しに強硬姿勢をとった近衛内閣の浅慮により、事態は拡大した。その後、「爾後国民政府を対手とせず」という宣言により事変は拡大の一途をたどり、ついには大東亜戦争に至ったのは、周知の通りである。

 松下電器も、当然の事ながら、史上はじめて体験する「総力戦」に対応しなければならなかった。

 松下電器では、応召者のなかで、妻帯者には給料の全額を、独身者には半額を、取り敢えず支給する事に決定した(『松下電器社内新聞』昭和十二年八月十五日号)。その他、記事によれば応召者の歓送、餞別の贈呈、慰問袋の発送、留守家族の慰問等が取り決められたという。

総力戦が女性の社会進出をもたらした

 派兵が本格化するなか、松下は朝会で以下のような訓示をしている。

< 北支の風雲愈々急を告ぐるに就て、朝鮮師団管下と内地師団の一部に召集令の発せられたことは諸君もご承知の事と思ふ。之れに応召して出征する人々が、相当ある様に聞くが、我社からも既に○名召集を受け、今晩電球会社の上原君、乾電池の指宿君が出発することになつて居る。出来るだけ盛んに見送つて頂きたい。

 今次の時局は、我国としては無論和平解決を切望する処であるが、彼にして之に応ぜざる限り、何処迄も膺懲せなければならない。それは素より皇軍の力に俟つ処であるが、其皇軍をして後顧の憂をなからしめ、遺憾なき働きをして貰ふ為めには、全国民協力一致の後援が必要である >

(『一日一話』昭和十二年七月十七日)

 社員の出征は、大きな問題であるが、より本質的な変化は、平和産業であるはずの電気機器―ランプ、アイロン、ラジオ―製造にこれまでのように専念できなくなる公算が大きいという事だった。

< 松下電器の事業は、平和工業であり、現下時局に際し、直接国家に必要な仕事をして居なかつたのであるが、之からはどうしても、時局に必要な工業方面へも進出することが、目下の時局に鑑み、国家に対する御奉公でもあり、松下電器の今日としても、左様にしなくてはならない >

(同前、十月四日)

 開戦後、三ヵ月もへないうちに、松下は軍需への転換を意識し、止むをえないものとして、受け入れている。

 今日の基準で、松下の軍需転換を批判するべきではないだろう。当時の国民意識として、企業が国家国民に尽くし、戦時に至っては出来るだけの協力をすることが当然とされていた。

 同時に、第一次世界大戦を表層的にしか経験しなかった日本にとって日中戦争は、はじめて迎える総力戦であった。日本の社会もまた、第一次大戦下のドイツやフランスのように、社会の構造を変化させ、国力のすべてを動員する体制を作っていかなければならなかった。

千人針日中戦争の初期に普及。戦場での無事を願い、白布に千人の女性が結び目を作る

 その課題の重さ、大きさを精確に認識していたのは、石原莞爾ら、一部の先進的軍人だけであり、この時点で見通し得た財界人はほとんどいなかった。

 総力戦のもたらした変化のうちの一つが、女性の社会進出である。

< 上野広小路の喫茶店へはいった。年若い芸者を二人連れた若旦那の一組がコーヒーをのんで居る。その前に女学生が二人立って居る。二人の芸者はそれぞれ一つずつ千人針の布片を手にもったままで女学生と何かしら問答して居る。

 千人針が縁となって茲に二つの可なり遠くかけはなれた若い女の世界が接近して、互にいくらか物珍らしい興味をもって交渉して居るのである。若旦那も時々助太刀に出かける。それが大変に丁寧な言葉を遣って居るのに対して女学生の言葉が思の外にぞんざいである。問答ばかりで中々容易には肝心の針の方に手が行かない。

 対話の末に、今日の四時何十分とかに出発する人々に贈るのだということがわかってからやっと針が動き始めて間もなく出来上った。その前に其処の給仕の少女等にも縫って貰ったのだと見えて、此れにも礼を云ってさっさと出て行った。若旦那が、僕は御役に立たないがせめても、と云ったようなことを云って、そうして『万歳』と云って片手を上げた。

 それは兎に角、此の場合はたった二針縫って貰うのに少くも十分はかかったようであった。四時何十分の汽車に間に合ったかどうか、それは知るよしもない >

 引用したのは、吉村冬彦が『セルパン』昭和七年四月号に掲載した、『千人針』と題された小文の一部である。吉村冬彦は、寺田寅彦の数あるペンネームの一つだ。

 千人針は、一種のお守りである。千人の女性が一針ずつ縫った布を、身体につけておくと、弾にあたらない、と信じられていた。家族、知己の女性が作り、出征兵士に贈るものだったが、応召が膨れるにつれて、性格が変化していった。街頭で呼びかけて縫ってもらい、駅や港で兵士たちに贈る、という運動が競争するように繰り広げられたのである。文中にある女学生たちもそういう気運に乗じていたのだろう。

 松下電器においても、女性従業員の組織『みどり会』が先頭に立ち、終業後に阪急百貨店前で千人針の呼びかけをした。

 こうした女性たちの活動には、身よりのない出征兵士の面倒を見る事から出発した、大日本国防婦人会とも通底する気運が流れていた。つまり、家庭や職場を離れて、女性が社会活動に従事する、その主体となる気運である。実際、総力戦下、女性の社会進出は確実に進んだ。

 寺田は、千人針について、かく書いている。「いずれにしても愛嬌があって、そうして何等の害毒を流す恐れのないのみならず、結果に於ては意外に好果をも結び得る種類の事柄である」。寺田の云う「好果」に、女性の社会進出は含まれていたのだろうか。

以降 vol.6 へ。

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