松下幸之助 vol.4

小林多喜二の志にも似た、「水道哲学」の久遠の理想

vol.3 「水道哲学の原点となった 天理教との出会い」はこちらをご覧ください。

 前回の稿で、松下幸之助の、いわゆる「水道哲学」について記した。

 天理での信者たちの献身ぶりに接した松下は、みずからの会社もまた、営利を超えた高い理想を掲げる事により、同様の団結、目的意識を求められると考え、名高い「水道哲学」を提唱したのである。

「しからば聖なる経営、真個の経営とはいかなるものか。/それは水道の水だ」(『私の行き方 考え方』)

 この発想は、その根底に「水道の水は加工された価あるもの」なのに、人が「栓を捻って存分にその水を盗み飲ん」でも咎められない、それは、「価あるにもかかわらず、その量があまりにも豊富」であるから、との考えがある。

水道水は本当に安価だったのか?

 ここで、ちょっとした疑問を感じたのは、この時期、つまり昭和七年五月当時、水道はそれほど安価で、ふんだんだったのか、という事だ。

 日本水道協会『五十年史』によれば、昭和五年の段階で全国の給水人口は一千四百九十七万六千人(上水道、簡易水道、専用水道の合計)であり、普及率で二三・四パーセントにすぎず、昭和十年で一千九百九十七万人とようやく二千万近くにまで増えているが、それでも普及率は二九・一パーセントにすぎない。

 国民の七割に及ぶ人々が、水道の恩恵に与れていない状況の下で、松下がその安価と豊富さを語った事には、なかなか含蓄深いものがある。

 それは、端的にいえば、松下幸之助の安価さ、豊富さに対する感覚が、都市生活者、都市に立脚した経営者のそれだと云う事になるだろう。

小林多喜二昭和4年『蟹工船』を発表。昭和8年、特高警察の拷問により死亡したとされる

 とはいえ、松下の感覚が、当時の日本の実情から遊離したものと捉えることもまた、不当のそしりを免れないものだろう。

 明治二十三年二月十二日に制定された水道条例は、敷設中心の規定から成っていて、経営や維持管理といった運営面の規定に欠けていたのである。

 この不備きわまる水道条例が数度の部分的改正を行いながらも、昭和三十二年までも存続したのであるから、水道は都市中心のままで近代日本の水道行政の貧しさは、はなはだしいという批判を受けるのは、当然だろう。

 普及率五割を超えるのが、昭和三十五年で、給水人口は、四千九百九十一万五千人、五三・四パーセントであった。

 松下が「水道哲学」を獲得し、真実の「創業記念日」を中之島の大阪中央電気倶楽部に集めた社員の前で披露した十日後の、昭和七年五月十五日、五・一五事件が発生した。

 満州での戦火が飛び火し、第一次上海事変が勃発してから、四ヵ月後のことであった。

 犬養内閣の、抑制的な対中政策に業をにやした、若手海軍将校を中心とする軍人と、井上日召率いる血盟団、橘孝三郎の愛郷塾が連携しての、クーデタ未遂事件であった。

 犬養内閣が倒れた後、与党である政友会は総理を出す事が出来ず―最大派閥の領袖であった鈴木喜三郎は、汚職の噂が絶えず、元老のお眼鏡にかなわなかった―、近代日本のごく短い政党内閣の第一幕は、終わった。

 鈴木にかわって宰相に指名されたのは、文治政策で知られた、元朝鮮総督斎藤実であった。斎藤は、天皇の意を呈して、満州での戦線を止めようと試みたが、勢いづく軍部を制する事は出来なかった。

 昭和七年三月下旬から、小林多喜二は、母らと住んでいた杉並区馬橋の自宅を出て、伊藤ふじ子とともに麻布区内を転々とする地下運動に入る。この時期に、つまり小林自身の潜行と、事変下の軍需の拡大が交錯する地点で、『党生活者』が執筆された。

 作中、「倉田工業」と記されている同作の舞台となった、ガスマスクやパラシュートの工場のモデルは西五反田の藤倉工業であった。多喜二は、執筆の参考として描いた「H工業略図」と題されたスケッチを残している。工具置場や、テスト機、ゴムを熱するオーブン、釘打ち機などの配置がきれいに整理され、示されている。工場内の様子を熟知していたと思しい。

 五反田は不思議な土地だ。御殿山そばの高級住宅地―皇后陛下の御実家、正田家もかつて居を構えていた―がある一方、目黒川沿いに歓楽街が拡がり、その間に工業地帯が入りこんでいる。何度か歩いたけれど、明らかな境界が察知しにくい。五反田を舞台に選んだ小林の意図は何だったのか。軍需工場があったからにすぎないのか、それとも・・・。

「一時に丁度十五分前、彼はいきなり大声をあげて、ビラを力一杯、そして続け様に投げ上げた。―『大量馘首絶対反対だ!』『ストライキで反対せ!』・・・あとは然し皆の声で消されてしまった。赤と黄色のビラは陽をうけて、キラキラと光った。

 ビラが撒かれると、みんなはハッとしたように立ちどまったが、次にはワアーッと云って、ビラの撒かれたところへ殺到してきた。すると、そのうちの何十人というものが、ムキになって拾いあげたビラを、てんでに高く撒きあげた。(中略)帰りに須山と伊藤とが一緒になると、彼は『こういう時は、俺だちだって泣いてもいゝんだろうな!』と云って、無暗に帽子をかぶり直したり、顔をせわしくこすったりした。

 /途中、彼は何べんも何べんも、『こうまでとは思わなかった!』『こうまでとは思わなかった! 大衆の支持って、恐ろしいもんだ!』と、繰りかえしていた」(『党生活者』)

 工場に潜入した運動家たちは、軍需が一段落するに際してのリストラに対抗するため、ビラ撒きをして、経営側の鼻を明かす。

 だが、勝利は一夜だけのものだった。

 翌朝、労働者が出勤すると臨時工六百人のうち四百人が、二日分の日給支払いと引き替えに馘首されてしまう。潜入していた運動家たちもすべて解雇され、運動の拠点は失われた。

 『党生活者』の登場人物たちは、次なる闘争への決意を語るが、昭和八年二月二十日、赤坂福吉町の路上で特高に逮捕され、築地署に連行された後、拷問を受けた多喜二は、その志を実現する事はかなわなかった。

 「水道哲学」は、松下幸之助にとって、まぎれもない理想であった。水道の普及率が三割に届かない状況であるからこその、久遠の理想。その遠さと純度は、共産主義のそれと同じく、しかしより「現実的」な輝きを帯びていたように思われる。

以降 vol.5 へ。

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