関東大震災を受け京都の撮影所へ。
そこで学んだ、時代劇と「関西色」
溝口健二Vol.2

vol.1 はこちらをご覧ください。

 十三歳の時、溝口家は貧窮のために健二を小学校に通わせる事ができなくなり、盛岡の親戚に預けた。健二はそこで小学校を卒えた。翌年、東京に戻るがリウマチで一年寝ついた後、芸者として稼ぐようになっていた姉の支援の下、浴衣の図案屋に奉公、模様絵師の徒弟をへて葵橋の洋画研究所に入った。

 赤坂ローヤル館でローシー夫妻がオペラ興行で大当たりをとっていた時期で、溝口はその舞台装置を手伝ったらしい。ここからショービジネスに近づいて行ったのだろう。

 オペラが赤坂から浅草に移ると、溝口は姉の家に転がり込み、オペラと寄席に熱狂し、漱石、鏡花、紅葉の小説を好んで読むようになった。

 そして、大正九年、溝口は、日活向島撮影所に入った。当時の新進監督、若山治の勧めにしたがって助監督になった。二十二歳の時である。本当は俳優志望だったという。

 溝口にとって運が良かったのは、日活が衣笠貞之助以下、スター、監督を大量に馘首したことである。そのため「出写会計」、つまりロケの世話係という助監督の最末端から、わずか二年で監督に昇格できた。

谷崎潤一郎は映画に向いていない

 日活向島撮影所は、関東大震災で致命的な打撃を受けた。全従業員は京都大将軍撮影所に移転することになった。

日活向島 撮影所跡地 かつて撮影所があった場所(墨田区堤通)。堤小学校の校舎があるが、現在は解体中

 もともと、日活の社内では、向島は現代劇、大将軍は時代劇という区分があったのだが、向島がなくなったため、大将軍は、現代劇と時代劇の双方を担う事になった。

 この事、つまりそれまで現代劇しか演出したことがなかった溝口が京都大将軍で時代劇に関与することになった事は、彼のキャリアはもちろんとして、日本の映画作品の帰趨をかなりの程度進めることになるだろう。

 加えてまた、溝口は京都で生活することによって、西鶴や近松の作品に触れ、さらには関西独特の、ねちっこい、進むにしろ退くにしろ粘り強い、感情が濃いからこそ剥き出しになるカタルシスの解放感を、みずからのものとして体験したのである。

 以降、何度か東京で演出した事はあるものの、溝口は、関西の演出家、作家となったと云っていいだろう。

 日活向島撮影所の末期ときびすを接するようにして、横浜に大正活映という映画会社が誕生した。浅野財閥の御曹司、良三が社長となり、谷崎潤一郎を文芸顧問に迎えて、邦画の面目を一新しようという意気込みである。

 谷崎潤一郎に心酔し、私的秘書(用心棒)を任じていた今東光が、谷崎と大正活映の関わりと、その顛末を記している。

 「大正活映はその名称のごとく大正九年春に資本金二十万円で設立された。(中略)谷崎が文芸顧問を承諾したのは出資者が毛並みが好いことと、栗原トーマスが帰朝して製作面を担当することに安心したのだ。(中略)/僕は非常勤の無給の私設秘書みたいなもので、例えば文学志望の青年が来ると、先生は忙しいのでまだ小説を見る時間がないが、気長に待つ間更に他の短篇でも書き給えとか何とか胡魔化し役だった」(『十二階崩壊』)

 けれど、間もなく今東光の映画熱は落ち着いてしまった。

 どうも谷崎は映画に向いていないのではないか、と感じたのだ。一度、そう感じてしまえば、無駄な寄り道に血道をあげる師匠に、意見をしたくなる(そんな度胸はなかったが)。だが出来る事は朋輩とくさす事位だ。

 「僕は次第に活動写真に情熱、そんなものはあまりなかったが、興味も好奇心も失って仕舞った。(中略)/それに谷崎潤一郎のオリジナル・ストーリイとしての喜劇の筋は、僕にはちっとも面白くも可笑しくもなかったのだ。率直に言わせて貰うなれば、これは駄作としか言いようがなかったのだ。

 例の皮肉屋の沢田卓爾と会った時にその話をして、/『こりゃ聞えたら怒られるかもしれないけれど、どうも駄作のような気がするんだ』/と言うと彼は、/『僕もそんな気がしていたな。失敗作はまだ救えるが、どうも駄作というやつは救いようがない。(中略)』/『そうですか。それなら意見は一致しましたね』/『駄作のわけだよね。あれは葉山三千子(勢以子)のために無理無体に作ったこじつけ作だからね』」(同前)

 引用文中の沢田卓爾は荷風と同世代のイギリス文学者で、荷風や谷崎、佐藤春夫と親しかった。

 葉山三千子は、谷崎の妻千代の妹で、『痴人の愛』のナオミのモデルとされている。

 東光と沢田の二人が「駄作」と断じた『アマチュア倶楽部』以下、十本余りの映画に出演している。

 上の文章で、今東光は、尊敬する谷崎の錯誤失敗を痛憤しているが、横浜滞在中、師匠の心配ばかりしていたわけではなく、やはり稀代の不良青年らしい楽しみを享受する機会を逃しはしなかった。

 当時、横浜は所謂「チャブ屋」の全盛期である。

 「僕はキッスをしてるうちに興奮してき、いろいろトミーのリード巧みに体位を変え、夜がほのぼのと白みそめる頃までベッドで戯れた。/『この勘定は』/『好いのよ』/『そんなことして叱られないか』/『ここのママは話が解るから心配しないで好いのよ。それより時々、来てね。お客のある時はあの窓に赤いハンカチーフを出しておくわ。青い花模様のハンカチーフなら屹度来てね』/僕はまた廊下の窓から谷崎家の屋根に渡り、雨戸から部屋に戻りかけて振り返ると、窓辺に、裸のトミーが立っていた。頭をめぐらせると、本牧の海は次第に明け初め、静かな朝凪ぎに縮緬皺の小波が立っていた」(同前)

 谷崎との青春時代を描いた『十二階崩壊』は、今東光の絶筆となった。

 一九七〇年代、今東光は、一種のカルトスターだった。『週刊プレイボーイ』を舞台にして展開された、人生相談『極道辻説法』は、爆発的な反響を呼んでいた。その東光が、谷崎の一番弟子であり、川端康成の友人として、昭和戦前の文壇をリードした事を、読者はどれだけ知っていたのかは、わからないが。

 東光は、師である谷崎の葬儀にあたって天台宗の大僧正として、葬礼をしきっている。

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