松下幸之助 vol.2

企業経営者に。松下が直面した昭和恐慌

vol.1 「成功した理想家、松下幸之助。 松下電器と「特攻の父」」はこちらをご覧ください。

 前回、石原莞爾と松下幸之助を並べて、昭和を代表する理想主義者として論じた。

 石原を引き合いに出すまでもなく、理想主義者が受ける試練は厳しい。

 ただ松下は、物心ついてからずっと試練が続いていた、と云ってもいいような人生を送ってきた。

 幼時に実家が破産し、頼みの兄姉たちが次々に病死した。満足な教育を受ける事も出来ず、大阪で奉公先を転々として、電灯会社の技師として頭角をあらわすものの、学力の不足から昇進は望めず、さらに結核を患ってしまった。

 金もなく、教育もなく、健康でもない。

 八方ふさがりの絶望的な状況から、地歩を一歩一歩作ってきた人間なのだ。

 金がないから、元手のかからない堅い商売をする。教育がないから、人の知恵を借りる、教えを乞う。身体が丈夫でないから、人の手を借りて働いてもらう。

 無いものだらけを逆手にとって、少しずつ、前進して行ったのである。

松下幸之助は恐慌をどう見たか

 企業経営者として、松下幸之助が最初に際会したピンチは、昭和初年の金融危機だった。けれどこの時は、若槻内閣の退陣と、田中義一内閣の誕生、特に高橋是清大蔵大臣の活躍により、日本経済は、さほど深い傷は受けなかった。

 昭和四年七月に成立した、浜口内閣が推進したデフレ政策が、決定的な打撃を与えたのである。

 雇用の保障も保険も何もない時代である。

 失業と同時に家も家財も失い、着の身着のままで、故郷へと歩いて帰る家族連れの列が東北本線や中央線の線路沿いに何日も続いた。

 主要な駅では、野宿する徒歩帰郷者のための、莚の貸し出しや、炊き出しが、在郷軍人会や婦人組織などによって行われた。

 浜口内閣は、インフレを鎮めることによって、経済を堅実にするとともに、円を金本位制に復帰させることで、日本経済の健全化を目論んでいたが、その試みは完全に失敗してしまった。

 アメリカ発の大不況―とはいえ、それが一時的な景気低減ではなく、長期にわたる不況になるという事は、誰も予測しなかったし、当時としては認識もされていなかったのだが―が、烈しくなりつつある時代に、経済を健全化しようとした、タイミングの悪さ。

 経済を健全にする事は大事だし、関東大震災の時に生じた、モラトリアムのための震災手形の処分がのびのびになっている事も、財政政策上面白くない。ここは一度、褌を締め直して、緊縮しようという意図は悪くない。けれど、時期が悪かった。

 『東洋経済新報』のエコノミスト、高橋亀吉の表現を借りれば、「台風が来ているのに、窓を全開にしてしまった」と云う状況を招いた。

 もちろん、当時として、こんな結果が到来すると、見透していた人は、極く少数だったろう。あるいは、一人もいなかったかもしれない。

 浜口雄幸と井上準之助は、たしかに信念の人だった。城山三郎さんが書かれたように、立派な人だったのだろう。

 けれど、政治家は結果責任を問われるのであり、昭和戦前が暗い時代になってしまった、その責任を幾分かは担わなければならない。

 経済指標の動きを見ると、その動揺の激しさがよく解る。

 日本の国民総生産は、恐慌がはじまった昭和四(一九二九)年を一〇〇とすると、翌五年に八九、六年に八〇、七年に八二という具合に、実に二〇パーセントも落ち込んだ(『長期経済統計』をもととした中村政則『昭和の恐慌』の図表による)。

 統計上の数値はまちまちだが、昭和五年から七年にかけて、三百万人の失業者がいたと推測されている。日本の人口が七千万人に届いていなかった時期だ。

 実質賃金も一五パーセント以上下落した。

 この状況を松下はどう見たか。

「この年の七月に、浜口内閣の成立とともに政府は緊縮政策をとった。しかし井上蔵相によって金解禁を計画せられるに及んで、財界は日に日に委縮して、不景気の徴候が一層加えられたのである。そして十一月には、いよいよ恐れていた金解禁が予告せられるに至った。かねて予期していたことであるにも拘わらず、一般財界は急激なる混乱を来たし、物価は一斉に下落するのみならずその売れ行きもまた著しく減退を来たしたのである。

 そして日々の新聞は、各工場の縮少または閉鎖を報道する記事で満たされ、職工の工賃の減額または解雇などの問題のために起きる労働争議がしきりに報ぜられるというような次第で、財界の不況は進んで社会不安をもたらすという徴候が日に日に加わってきた」

 松下は、伝記的な著作を何冊か書いているが、そのなかでも、比較的初期にあらわされた『私の行き方 考え方』は、清新な魅力をもっている。

 こうした趨勢のなかで台頭してきたのが、軍部であり、新官僚と呼ばれる一団であった。新官僚のリーダーと目されたのは、日本の産業政策を切り廻し、巣鴨プリズンを経由して、首相にまで登った岸信介だろう。

 岸は商工官僚時代、昭和六年四月に重要産業統制法を成立させた。「統制」という言葉が法律用語として用いられたのは、この時がはじめてだという。

 この法律を梃子に、国家は各産業を統制できる事となり、その下での安定、発展が促された。

 自由主義経済は、時代遅れとなって、国家統制が、経済の推進力の役割を果たしていく。

 当初、「統制」は、過剰生産を防ぐために国家管理下でカルテルを結ばせるとか、ネジなどの規格の統一などが中心だった。

 岸が一番困ったのは、メートル法の問題だったという。「すると貴族議員の岡部長景さんが反対した。メートル法はフランス革命によってできたものだから、革命思想である。従ってこのメートル法を実施しようとするのは国民精神を誤るものだ、などと言う。これには困ったですよ」(『岸信介の回想』)。

 岸はその回想のなかで、ソ連の第一次五ヵ年計画について、初めて知った時、「ショックを受けた」と素直に書いている。

 より大規模で包括的な統制が日本で行われるのは、蘆溝橋事件以降である。

以降 vol.3 へ。

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら