松下幸之助 vol.1

成功した理想家、松下幸之助。 松下電器と「特攻の父」

 文芸批評の仕事からやや逸れて、最初の評伝『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』を上梓した後、私は松下幸之助について、書こうと思った。

 それは、いずれトータルな形で、昭和という時代を書いてみたいという「野心」の、その重要な段階としてでもあった—戦略的には—が、いま一つは、石原莞爾という稀代の理想家の横に、松下幸之助という今一人の理想主義者を配してみたかったからである。

 石原は挫折した。失敗した。自らの理想が瓦礫に帰した光景をまのあたりにしたのにたいして、松下幸之助は、成功した理想家である。理想が、理念が、この地上で成功するのは稀有な事だけれど、松下はそれを成し遂げた、と私は思う。

皮肉にも、軍需化が技術力を高めた

 松下の抱いた理念とは、いわゆる「水道哲学」である。

 水道の水は、ただではない。とはいえ通りかかりの人が、勝手に呑んでも怒る人はいない。それは水が豊富にあり、安価だからだ。

 もしも、家電製品を、あるいはすべての工業製品を、水のように安価に、潤沢に造る事ができれば、この世から貧困を放逐できるだろう・・・。

 そうした理念を松下は抱き、完全とは云わないまでも、半ばは実現したのである。

 実業の世界は、天界ではなく俗の俗なる地平で展開される地上の事業である。

 得する者があれば、損をする者もある。正直な取引も、相手とのやりとりの中で相対化され、道理にあわない誹謗の下に引きずり落とされることもあるだろう。

 生身の一実業家としての、松下幸之助が、そうした毀誉褒貶に曝されるのは、世の習いとしか云い様がない。不本意な批判もあったろうし、時には批判を受けても仕方のない場合もあったかもしれない。様々な事柄は、世俗を旺盛に生きる事を志した企業人としては、避ける事が出来ない事である。

 金銭という流通生動する物差しを基とした世界は、相対が本分とならざるをえない。その相対の世界—何処よりも高い品質、合理的な価格、より大きなシェア—で、勝利しつつ、理念を実現してみせた。それはやはり、松下個人にとっての勲しであるとともに、日本の近代、その経済活動にとっても、誇るべきものだろう。

 石原との対比から松下について語りだしたけれども、軍人として生きた石原の宿命—石原は、もう少し恵まれた環境に育ったならば、軍人ではなく、思想家、宗教家としての人生を選んだ可能性が高いと思う—はともかくとしても、松下幸之助もまた、軍事とは無縁の存在では在り得なかった。

 それは戦前の日本において、軍が社会的、政治的、経済的に占めている割合の大きさ、その巨大さを考えれば、当然のことである。

 特に昭和十二年夏の蘆溝橋事件後の、中国大陸における際限のない戦線の拡大と、その対応策としての総力戦体制の下で、松下幸之助本人と、松下電器は、否応なく軍需産業化を余儀なくされた。

 本来、平和な家庭に供される家庭電気製品を主力としていた松下電器が、軍需に進出するにあたっては、相当の経緯もあっただろう。とはいえ総動員体制の潮流は抗い難いものであったし、また戦前の一般的な価値観からすれば、戦時に国家のために献身する事は、国民にとってごく当然の義務とされていたのである。

 加えて、軍需化は松下電器の技術力を、高める「チャンス」でもあった。通信機器一つとっても、民生用と軍用では、スペックが違う。工作の基準も、家庭用よりも二桁も三桁も高い精度を要求された。

 予算を限らない環境で培われた、海軍のさまざまなノウハウが、技術将校の手によって松下電器の現場に注ぎ込まれた。敗戦により、帝国陸海軍は滅びたけれど、彼等が国費をもって培った技術は、戦後復興の糧となったのである。

 軍人といえば、もっとも深く松下電器と関わったのは、「特攻の父」大西瀧治郎だった。

 松下電器が海軍の注文に応じて、フォード式の流れ作業を応用して、小型船舶の大量生産に成功したことに注目したのだ。

 大西は、松下電器に、船舶と同様の方法で、特攻用の飛行機を生産するよう依頼した。

最終的に特攻を主張 し「特攻の父」と呼 ばれる。特攻隊員へ の謝罪を遺して自決

 云うまでもなく、船舶と飛行機では—たとえ特攻専用であるとしても—、要求される技術水準には、かなりの差がある。にもかかわらず松下電器は、結局、終戦間際に試験飛行にこぎつけた。こぎつけてしまった、というべきかもしれない。

 飛行機を生産したという事実によって、松下幸之助は、対米戦争に積極的に協力した財界人として公職追放処分を受けてしまい、一時期、経済活動を禁じられてしまった。

 とはいえ、実際に飛行機を造り、飛ばすだけの技術の蓄積は、やはり松下電器にとってはかけがえのないものだった、とも云い得るだろう。

 大西は、海軍内で、「大西郷を科学したような男」と呼ばれていた。徹底した合理主義者で、早くから戦艦の廃止を唱え、海軍のマークを錨からプロペラに替えろ、と放言しては、保守的な提督の眉をひそめさせた。海軍を空軍にしてしまえ、という主張の仕方は、乱暴だったけれどその合理性は、誰も否定できないものだった。

「特攻」を大西が主唱したのも、狂信のためでなく、その合理主義、剥き出しの合理主義者故だったと考えるべきだろう。

 草柳大蔵は、その著書『特攻の思想 大西瀧治郎伝』のなかで、その「合理性」を説いている。戦争末期、航空燃料が不足したうえに、オクタン価の低いものしか手当て出来ず、航空機の運動能力が著しく落ちている。機体の整備水準もはかばかしくなく、稼働率が低く、故障も多い。

 しかも熟練パイロットは、おおかた戦死してしまい、速成のパイロットでは、到底、アメリカのグラマンやロッキードに対抗できない。だとすれば、彼等の死を、少しでも意味あるものとするには、体当たりしかない・・・。

 大西は、特攻の標的を航空母艦の甲板と決めていた。甲板さえ破壊すれば、船体が無事でも航空機は運用できないからである。もちろん、その「合理性」が、生命をかける事を正当化できるものか否かは、判断の分かれるだろう。

 大西は、終戦の翌日、自ら割腹して果てた。

以降 vol.2 へ。

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