乃木希典 vol.9

大葬の当日、乃木夫妻の「殉死」。 当時の知識人はどう見ていたか

vol.8 「昭和天皇の教育係になった乃木の教育方針とは」はこちらをご覧ください。

 明治四十五年七月三十日、明治天皇は崩御した。

 天皇は、明治三十七年頃、糖尿病に罹患していることが判明した。侍医たちは、治療に手を尽くしたが、当時の医学の限界もあり、また天皇が日本酒を好んでいたこともあり---天皇自身は、自らの病いを知らされていなかったので、女官らを「なぜ酒を出さぬのか」と叱咤することもあった---病状は重くなっていった。

 明治四十年を過ぎると、しばしば御前会議など人前で居眠りすることがあった。

 そして、四十五年の七月がやってくる。

 二日、前首相の桂太郎が、欧州巡遊の出発にさいして天皇に拝謁した。巡遊は一応の名目で、実際には内蒙古での日露双方の勢力範囲を定める第三次日露秘密協約の締結が目的であった。

 天皇は、桂に、一万五千円の旅費を下賜した。

「院長閣下はどこに行かれるのか」

 陸軍、海軍は、困惑していた。

 大演習についての裁可が、なかなかいただけなかったからである。

 陸軍の幹部は、天皇と接する機会が多く、健康状態の悪化を正確に把握していた。なるべく負担を軽減するために、四十五年度の大演習は、川越付近を決戦地点とし、天皇は四日間の演習中、川越で一泊するだけで、他の日は皇居から通えるよう計画したのである。

乃木の「殉死」 東京都港区、現在の乃木神社の隣地にある自宅で妻の静子とともに自刃。享年62

 けれど、天皇の裁可は得られなかった。

 毎夕、皇居に帰るような演習ではその実を得られないと、反対された。

 参謀本部が、川越の行在所に五泊するよう計画を訂正して、ようやく演習計画は決裁された。

 七月十日、東京帝大の卒業式に親臨し、成績優秀者に恩賜の銀時計を授けた。

 下痢がはじまったのは、十四日の朝だった。

 その日、一応出御したものの、御座所でうつらうつらされた。

 翌日、日露秘密協約を審議する枢密院会議に出席したが、姿勢は定まらず、眠ってしまった。

 十七日は、最後に出御した日となった。

 十九日、御仮床が御座の間に設けられた。体温は四十度まで上がった。

 山縣有朋ら元老をはじめとして、西園寺総理を筆頭とする閣僚、陸海軍の将帥らが、皇居西溜りの間に詰めた。

 乃木希典もいた。

 帝大医科大学教授青山胤通が腎不全という診断を下すと、一同は動揺した。

 この頃から、宮城前に民衆が集まりだした。

  朝まだきより、百余名の盲人が杖に縋りて遥拝したるを初として、水兵の一団あり、商家の連合隊あり、幾百列を正して歩み寄れる小学児童が、師の命に従ひて厳かに首を下げたる、いづれも之れ烈日の下、悲痛の声は踏む砂利の音に交り、去つて御濠の畔、鉄の御柵の前には、前日来日参とも云ふ可き幾群の行者が、天の日にも劣るまじき活火を前にして、ひたぶるに祈り続けたる。唯之れ赤誠の権化なり。

(「国民慟哭記」、『太陽 臨時増刊 明治聖天子』)

 乃木希典が、その夫人とともに「殉死」したのは、大葬の当日であった。

 その三日前、乃木は特に望んで迪宮(後の昭和天皇)に拝謁した。

 宮は、父が天皇として践祚したために、皇太子となり、陸海軍少尉に任官していた。

 小さな軍服に大勲位菊花大綬章をつけた宮の姿を見て、乃木は微笑んだという。

 乃木は、宮に、山鹿素行の『中朝事実』を捧げ、暇乞いをした。

「院長閣下は、どこに行かれるのか」

 という宮の質問に対して乃木はこう答えた。

「希典は、イギリス国王の御名代として大葬に参列されるコンノート親王殿下の接伴員をおおせつかりましたので、遠方に参らなければなりません。ですからお暇乞いに拝謁いたしました」

 十一歳の宮は、乃木の葬儀に行く事は許されなかった。

 乃木夫妻の殉死は、大きな反響を生んだ。

 夏目漱石が、その代表作『こゝろ』で、乃木の死を、重要なモチーフとして扱ったことはよく知られている。

 夏目よりも、格段に乃木と親しかった森鷗外は、その死の直後に殉死をテーマとした『興津弥五右衛門の遺書』を執筆し、さらに『阿部一族』を書いている。

 といって、全国民がその死を嘆賞したわけではない。

 志賀直哉は、大正元年九月十四日付の日記にこう書いている。

「馬鹿な奴だ」といふ気が、丁度下女かなにかが無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた。

 同じく白樺派の武者小路実篤も「自分は乃木大将の死を憐れんだ」(「三井甲之君に」)と書いているから、学習院出身者の一部には、乃木を軽侮するような傾きがあったのかもしれない。

 同じく学習院出身の近衛文麿は、乃木を崇拝しているから、世代的な温度差があったと考えるべきかもしれない。

 新劇運動の旗手、島村抱月は「乃木大将の自尽ほど単純でそして強力な出来事は恐らく近年の歴史にないでせう。(中略)理非善悪を超越して、ただ電気のやうに人々の脳底にあツと言ふ一感動を与へる」(『大阪毎日』大正元年九月二十日)と書いた。

 徳冨蘆花はエッセー集『みみずのたはこと』で次のように書いている。

 九月十五日、御大葬の記事を見るべく新聞を披くと、忽初号活字が眼を射た。

 乃木大将夫妻の自殺

 余は息を飲むで、眼を数行の記事に走らした。

「尤だ、無理は無い、尤だ」

 斯く呟きつつ、余は新聞を顔に打掩ふた。

 近代日本、最大の言論人である兄、徳富蘇峰に反発し、最初の流行小説とも云うべき『不如帰』を書き、トルストイに私淑し、あらゆるジャーナリズムが口を噤んだ大逆事件のさなか、『謀叛論』を著して一人果敢に幸徳秋水らを弁護した、蘆花をして感動せしめるだけのものが、乃木の死にはあったのである。 (この項終わり)

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