史上初の大調査
著名人100人が最後に頼った病院
あなたの病院選びは間違っていませんか

週刊現代 プロフィール

 骨髄異形成症候群という難病。病院からは、輸血を勧められた。しかし、青島氏は断り、そのまま逝った。74歳だった。

「一切苦しまず、まるで冬眠に入るような最後でした。江戸っ子らしく、粋に『じゃあ』と旅立った」(美幸さん)

 最後まで自分の流儀を貫いた青島氏には、どこで死を迎えようと同じだったのかもしれない。

 難病と闘う人々の決断はさまざまだ。一つの病院を信頼し入院し続ける人も、可能性にかけ、転院する人もいる。

 歌手・本田美奈子さんは、「急性骨髄性白血病」という難病と闘い続けるため、一つの病院で入院生活を送った。デビューから最後まで、二人三脚で歩んできた芸能プロダクションBMI社長の高杉敬二氏が語る。

「最初は人間ドック用の採血をするだけのはずだったんです。ところが大至急再検査してほしいと言われた。それでその検査の翌日『急性骨髄性白血病です』と」

 治療はうまくいった。臍帯血移植が成功し、症状が目に見えて改善。一時は退院にまでこぎつけた。ところがその後ぶり返した。

「骨髄バンク登録運動との関連から、私の口から病院名や医師名は出すことはできないのですが、先生への信頼は最後まで揺るがなかった。すべてをきちんと説明していただきました。転院は選択肢になかった。本田も私たちも同じです」(高杉氏)

 入退院を繰り返した後、'05年、最後は合併症で白血病との闘いにピリオドが打たれた。38歳の若さだった。

 復帰の望みをかけ、転院を選んだのが、逸見政孝氏だ。まだがん告知が一般的でなかった'93年当時、自らマイクの前でがんを告白した記者会見は日本中に衝撃を与えた。息子で俳優・司会者の逸見太郎氏が当時を振り返る。

「父は最初にかかっていた病院のお世話になりたいという気持ちもあったようですが、母や周囲は強くセカンドオピニオンを求めた。そこで、父の所属プロダクションの方が見つけてくださったのが、東京女子医科大学病院。執刀医は『ゴッドハンド』の異名を持つ消化器病センター長の羽生富士夫先生で、父も『僕は先生に賭けたい』と言っていました」

 悩み抜いた末の決断。決めた後は、ただ耐え続けた。

「かなり苦しかったようです。でも、痛いとか痒いとか一切言わず、まるで武士のように耐えていた」(太郎氏)

 最後の1ヵ月は、口をきかなくなった。そうなる前に政孝氏が口にした言葉で印象に残っているのは、それまで聞いたことのないこの一言だったという。

「ママには優しくしてくれ」

 政孝氏はすべてを呑み込み、48歳で逝った。