「仕事は戦争」
傑作より駄作が多い名映画監督の強烈な人生とは---
溝口健二Vol.1

 映画を観るようになったのは、中学校に入ってからだった。

 小学生時代は、模型に入れ込んでいて、プラモデルと鉄道模型に心魂を傾け、塾をさぼっては、モノグラムやエアフィックスの飛行機や戦車のデッドストックを漁り、あるいは天賞堂の模型部---当時は時計と模型は別の店舗だった---のショーケースに貼りついていたのが、どういう訳だか中学に入ってみると、映画と音楽に入れ込んでしまったのだった。

 当時、LPは、二千五百円ぐらいしたから、そうそう買えない。でも映画は名画座だったら二本立てで二百五十円だったから、かなり通えた。当時、ロードショーの特別鑑賞券が八百円ぐらいだったろうか。

 『スティング』、『アメリカン・グラフィティ』、『燃えよドラゴン』が、封切られた年だった。

 太田圭君という同級生がいて、彼は僕が観る事のない、大人びた映画を観ていた。『アメリカの夜』は、彼に連れられて丸の内ピカデリーで観た。僕がはじめて観たトリュフォーの作品。新宿でマルコ・フェレーリの『最後の晩餐』も観た。観たからには成人指定ではなかったのだろうが---あるいはその頃はそんな規定はなかったのかもしれない---、中学生には刺戟が強すぎる作品だった。太田君は、後に監督になり三本の映画を撮った。

巨匠・新藤兼人が追いかけた監督

 邦画はそんなに観なかった。高校に入ってからは、東映のヤクザ映画と日活のアクション映画を求めて関東中の名画座を梯子したのだけれども。

 唯一新藤兼人の『わが道』を観た。一九七四年の公開だったと思う。主演の殿山泰司の、『三文役者あなあきい伝』が刊行されたばかりだった。どういう訳だか、中学に入り、映画と音楽に発情しただけでなく、無政府主義に興味をもってしまったのだ。松田道雄編の現代日本思想大系『アナーキズム』を図書館で見つけたのが、きっかけだったと思う。ジョニー・ロットンが『アナーキー・イン・ザ・UK』を歌う二年前の事だ。まあ、子供の事だから、とにかくアナーキーとつけば何でも面白がっていた頃で---プルードンとバクーニンの区別も分からないくせに---『あなあきい伝』は、とても面白かった。

 『わが道』の、路上死亡者として遺体が解剖研修にかけられた殿山泰司の顔面はショックだったけれど、スクリーンに映っている役者としての殿山泰司は、かなり正統派に見えた。

 そして新藤兼人という監督が気になった。気になると作品をおっかける。おっかけだしてすぐに『ある映画監督の生涯』にぶつかったのは、とても幸運だったと思う。

 溝口健二の生涯を、関係者---田中絹代、木暮実千代、山田五十鈴、中村鴈治郎、進藤英太郎らの役者たち、伊藤大輔や増村保造ら監督、プロデューサーの永田雅一、そして浅草時代の幼馴染みであり、生涯を通して溝口を支え続けた川口松太郎らのインタビューにより構成されたこの作品は、新藤自身が述べるように、けしてドキュメンタリーではなく(体裁はそうなのだけれど)、ドラマだ、劇作だと云い得る作品になっている。

 溝口健二という強烈な人間、湯島で生まれ、浅草に育ち、ひょんな縁から向島の日活撮影所で助監督になり、生涯に八十五本の映画を撮った---傑作も多いが、駄作、失敗作はもっと多い---男の強烈極まる人生と人間像---「仕事は戦争と一緒です、大義親を滅ぼす、です」---を実際に助監督、美術監督、脚本家として溝口に仕えた新藤は、自らインタビュアーを務めることでその多面性を描ききっている。

 『ある映画監督の生涯』は、一九七五年度のキネマ旬報ベスト・テン第一位、監督賞、作品賞を受賞し、毎日映画コンクール監督賞、文化庁優秀映画奨励賞、朝日賞を受賞した。新藤にとっては、『縮図』や『裸の島』、『鬼婆』と並ぶ代表作という事になるのだろう。

 溝口健二は、浅草で育った。

 瓦職人だった父親が、日露戦争の軍需を当て込んで合羽を大量に製造したけれど休戦で買い手がつかず破産し、湯島から浅草に引っ越した。八歳で石浜小学校に入り、川口松太郎と同級生になっている。

浅草寺 下町に育った映画監督・溝口健二と女優・沢村貞子も、寺の境内を毎日歩いていた

 父が破産した後、一家の生活は芸者となった姉の寿々の双肩にかかった。寿々は、松平忠正子爵に見そめられて落籍された。若き溝口は、しばしば姉宅に赴き、小遣い等を貰っていたが、映画作家としての溝口にとっては、両親や弟らのために苦労を重ねている姉の姿を、つぶさに見た事が、『祇園の姉妹』や『残菊物語』の女性を造形するにあたって、決定的な影響を与えたに違いない。

 女優の沢村貞子も、浅草に生まれ育った。

 「大正十年四月から、いよいよ待望の女学生になった。かぞえ年十四歳、満で十二歳六カ月である。/毎朝、浅草観音の境内から瓢箪池の脇へ出る。六区とよばれる歓楽街を横切って伝法院をぬけるのが、七軒町にある学校へ通う近道である。早朝の六区は、しんと静まりかえって人っ子一人いない。色とりどりの紙屑のあいだに、バナナの皮やゆで玉子の殻が散らかり放題で、足の踏み場もなかった。一山五十銭のたたき売りのバナナ、三つ十銭の青島玉子の残骸である。両側にずらりと並んだ活動小屋には、それぞれ派手を競った毒々しい原色の絵看板がかけられていた。/私は、その道のまんなかを、わき目もふらずにせっせと歩いた。オペラ館の人気スター田谷力三や木村時子の写真にも、ふりむかなかった。浅草に生まれて浅草に育ち、毎日六区を通り抜けながら、自分が映画女優になるまで、私は活動写真をまったく見たことがない。見たいとおもわなかった」(『貝のうた』)

 父が狂言作者、兄と弟が役者---澤村國太郎と加東大介---という演劇一家に生まれた貞子は、愛嬌があって賢いというので周囲から芸者になるように勧められたが、母に懇願して府立第一高等女学校に進み、その後、日本女子大の師範家政学部に入るが、結局、新築地劇団に入った。同劇団は共産党の指導下にあったため、非合法活動に関係し、二度にわたって逮捕され、転向した後、兄が活躍していたマキノ・プロダクションで映画俳優としての道を歩きだした。

 貞子の甥(國太郎の息子)が長門裕之と津川雅彦だ。津川は、マキノ雅彦名義で映画監督もし、三本の作品を撮っている。
 

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