下町を焼き尽くした「東京大空襲」。
罹災した老作家は、流浪の民となった
永井荷風Vol.10

vol.9はこちらをご覧ください。

 昭和二十年三月九日夜から十日未明にかけて、アメリカ軍はB29二九八機により東京を爆撃した。江東を中心にする東京の下町はほぼ壊滅し、死者は十万人に及んだとされている。

 二五〇キロ遠方の太平洋上からも炎上する東京の火が見えたという証言を残しているアメリカ兵が多数いる。

 この日、荷風の麻布の屋敷---通称、偏奇館---も、焼夷弾により炎上した。「天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、火は初長垂坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の叫ぶ声のたゞならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり、谷町辺にも火の手の上るを見る、又遠く北方の空にも火光の反映するあり、火星は烈風に舞ひ紛ゝとして庭上に落つ、余は四方を顧望し到底禍を免るゝこと能はざるべきを思ひ、早くも立迷ふ烟の中を表通に走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉へ出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山神谷町辺焼けつゝあれば行くこと難かるべしと言ふ」(『断腸亭日乗』昭和二十年三月九日)。

道源寺坂 坂の上にあった荷風の屋敷「偏奇館」は、東京大空襲により、蔵書もろとも焼失した

 その後、荷風は火炎の下、老人の手を引いている女児を溜池方面に逃げさせた後、二十六年間過ごした屋敷が燃え落ちるのを見届けたいという強い衝動を覚えて、再び自宅に立ち戻った。

 「余は五六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎ゝとして燃上り黒烟風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るゝを見定ること能はず、唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり」(同前)

 かくして偏奇館は、膨大な蔵書とともに炎上し、燼灰に帰した。荷風は、大震災と大空襲、二度の大火を経験したことになる。江戸の名残りが失われていく事を歎いた作家は、その作家生活の晩年、帝都東京の焼尽、壊滅を身を以て体験したのである。

低空飛行爆撃という理にかなった作戦

 荷風は遠縁にあたる杵屋五叟の代々木の家に逃げ、そこから旧知の音楽家菅原明朗が住む中野区住吉町のアパートに移った。

 五月二十五日の空襲で再び罹災し、駒場に避難した後、菅原の郷里である明石を経て、岡山に赴き、その地で再び空襲に遭った。

 八月十三日には、勝山に疎開した谷崎潤一郎を訪れている。

 「午後一時半頃勝山に着し直に谷崎君の寓舎を訪ふ、駅を去ること僅に二三町ばかりなり、戦前は料理店なりしと云、離れ屋の二階二間を書斎となし階下には親戚の家族も多く頗雑遝の様子なり、初めて細君に紹介せらる、年の頃三十四五歟、痩立の美人なり(中略)やがて夕飯を喫す、白米は谷崎君方より届けしものと云ふ、膳に豆腐汁、町の川にて取りしと云ふ小魚三尾、胡瓜もみあり、目下容易には口にしがたき珍味なり、食後谷崎君の居室に行き閑話十時に至る、帰り来つて寝に就く、岡山の如く蛙声を聞かず、蚊も蚤も少し」(同前)

 谷崎も荷風と同じく、開戦以来、ほとんど作品を世に問うてはいない。にも拘らず、谷崎が贅沢な生活を維持し、荷風が流浪を余儀なくされたのは、やはり配偶者の存在が影響しているのだろう。独身生活を謳歌していた荷風に、戦争は残忍であった。

 翌晩、荷風は谷崎の処で牛肉を食べ、松子夫人と盃を重ねた。「灯刻谷崎氏方より使の人来り津山の町より牛肉を買ひたればすぐにお出ありたしと言ふ、急ぎ小野旅館に至るに日本酒も亦あたゝめられたり、細君下戸ならず、談話頗興あり、九時過辞して客舎にかへる」。

 東京大空襲は、第二十空軍参謀総長カーチス・ルメイの指揮下に計画、実行された。ルメイは、市街地住宅地域への焼夷弾攻撃にたいして消極的、批判的だった前任者たちと違い、低空からの焼夷弾爆撃こそが戦争を終結させるという信念を抱いていたのである。非戦闘員にたいして広範囲な攻撃を加える事を、ルメイは以下のように合理化していた。

 「日本の工業はそれぞれ小人数を雇って、重要な組み立て部品を生産している数千の零細下請け業者、小工場の共同生産の上に大きく依存していたからである。これらの下請け工場群は日本全国の都市地区にぎっしりと詰め込まれており、これを一掃するには広範囲な焼夷弾攻撃による破壊以外にはなかった。・・・問題は、いかにして一定の時期に集中して必要な大量の焼夷弾を投下するかであった」(『太平洋戦争報告書』米国戦略爆撃調査団、『戦略爆撃の思想 ゲルニカ 重慶 広島』前田哲男より)

 ルメイはその自伝で、事情をより詳らかにしている。

 「高高度精密爆撃で日本を打ち倒せないことが、明らかになってきた。われわれは全く異なったなにかを実行する必要に迫られた。言い方を変えれば、兵器の使用方法を変えねばならなかったのだ。/私は偵察写真をながめてみて、ヨーロッパで襲われたような低高度用の対空火器がないことに気づいた(日本軍は高射砲も少なかったが、高射機関砲はもっと少なかった)そこで、低空を飛べば燃料消費が少なく、そのぶん爆弾を多く積め、とりわけ夜間なら成功の可能性が高い、理にかなった作戦が思い浮かんだ。状況を判断し、戦法の革新の必要性を再認識ののち、日本の都市産業地域に対する、焼夷弾を用いた低高度爆撃を決定するにいたったのだった」(同前)

 ルメイは、民間人の死傷者を思うと「幸せな気分」になれなかったと云うが、捕虜となったアメリカ兵を日本人がどう扱ったかを考えれば、さして罪悪感に囚われることはなかった。ルメイは、ドイツ空襲における月間出撃時間の四倍にあたる一二〇時間の出撃を日本全土の爆撃に際して行った。

 ベトナム戦争時、国防長官を務めたロバート・マクナマラは、第二次世界大戦時、ルメイの幕僚だった。マクナマラをテーマにしたドキュメンタリィ『フォッグ・オブ・ウォー』に、焼夷弾爆撃の遂行中、ルメイにたいしてマクナマラが質問する場面がある。

「もしも、日本が戦争に勝ったら、どうなるんですか」

「当然、われわれは死刑になるだろうな」

 と、ルメイは答えたという。それだけの自覚をもってはいたのだろうか。

週刊現代2011年8月6日号より

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