乃木希典 vol.6

旅順陥落で歓呼する陣中。乃木は一人涙を流した

vol.5 「旅順の二〇三高地に立つ。その「壁」を前に言葉を失った」はこちらをご覧ください。

 明治三十七年八月から十一月、三回に及んだ旅順総攻撃で、乃木軍は五万九千人に及ぶ死傷者をだした。

 金沢の第七連隊は千八百人のうち、陥落後、戦闘に従事できる者は、二百八十五人だった。

 高知第四十四連隊は二千三百人中、二百六十四人だった。損耗率は、九割近い。

水師営旅順軍港から約5km。1905年、旅順攻防戦の停戦条約が結ばれた北洋艦隊の駐屯地

 児玉源太郎が、乃木から指揮権の委譲を受けたのは、十二月一日である。

 一旦、乃木軍が二〇三高地の占領に成功したにもかかわらず、ロシア軍による奪還を許した。児玉は乃木軍の指揮系統が、崩壊しつつある事を看取したのである。

 十二月五日、総攻撃が再開された。

 東京湾から移設された二十八センチ砲は、二千三百発を発射した。総重量五百トンの砲弾により、二〇三高地は、一日にして陥落した(宿利重一『児玉源太郎』)。

 作戦立案当初の攻撃計画、すなわち参謀本部の田中義一、佐藤鋼次郎両参謀の、二〇三高地を攻撃正面とし、圧倒的な重砲火力の集中のもとの総攻撃で一気に攻略するという計画の正しさが証明された形になった(大江志乃夫『世界史としての日露戦争』)。

 午後二時までに、日本軍は二〇三高地をほぼ制圧し、砲兵司令部は山頂に観測所を設置した。

 即座に射撃がはじまり、戦艦ポルタヴァ、レトゥイザンなど軍艦のすべてを撃沈、航行不能にした。

 連合艦隊は、長かった旅順港封鎖任務をといて、母国に帰り、艦艇の修理整備と、士官船員の休養を行うことが出来た。

 バルチック艦隊との対決がある以上、この休養は決定的なものだった。

   ∴

 旅順の物語はまだ終わらない。

 艦隊が全滅したものの、まだ旅順要塞には二万人以上のロシア軍がいたのである。

 日本側は、一つ、一つ堡塁を爆破し、ロシア軍を追いつめていった。

 二十九日、ロシア側司令官ステッセルは、要塞軍の主要幹部を集めて、抵抗を断念すべきか否かを問うた。

 主要な将校のほとんどが戦闘余力は十分にあると主張したが、レイス参謀長はロシア艦隊が消滅した以上、籠城する意味はないと論じた。

 会議は、決裂した。

 その間にも、日本軍は堡塁を一つ、一つ潰していく。

要塞戦ほど残酷なものはない

 明治三十八年一月一日、フォーク中将がステッセルを訪ねた。

 フォーク中将は、前日、直属の上司スミルノフ要塞司令官の頭越しに下りた退去命令を受けて、防御戦からの全面撤退を命じていた。

 ステッセルの意を受けて、フォーク中将は軍使を日本側に送った。

 翌日、正午、水師営に、日露両軍の軍使が集った。ロシア側は、日本の要求をほぼすべて認めた。

 五日、乃木は、ステッセルを水師営に迎えた。

 アメリカのニュース会社が、会見を撮影したいと申し入れた。

 無用の恥辱を与えたくない、と乃木は断った。

 その姿勢が、ますます乃木の声望を高めた。

 従軍記者として、乃木を追いつづけたシカゴ・ニュースの記者、スタンレー・ウォシュバンは、その著書『乃木』のなかで、歓呼する陣中のなかで、乃木は一人泣いていた、と記している。

「今は喜んでいる時ではない、お互いあんなに大きな犠牲を払ったではないか」(目黒真澄訳)

 実際、ステッセルと、その幕僚とともに撮影した写真を見ると、敵将が安堵しているのに対して、乃木は哀しげな表情をしている。

 私が行った時、水師営の跡は、零細な工場になっていた。後に訪れた人によると、今は復元されて観光資源になっているそうな。

   ∴

 近代日本最大の戯曲作家、真山青果は、昭和四年から十一年にかけて乃木希典を題材とした戯曲を書いている。読者は、真山青果といってもピンとこないかもしれないので、一言だけいえば戦前、最初に坂本龍馬を戯曲化して上演し帝劇など一流劇場で大成功したのが真山青果である。

 もちろん、司馬遼太郎のはるか以前だ(それ以前に伊藤痴遊による講談はあったけれど)。『竜馬がゆく』は、真山から圧倒的な影響を受けている。というより子母澤寛の『新選組』から『燃えよ剣』を造りだすような器用さにこそ、司馬の優越があるのだろうが。

 真山は、『乃木将軍』中編で、旅順における乃木と児玉の出会いを描いている。好みは分かれると思うが、是非、司馬と読みくらべていただきたい。

児玉 おぬしとちがつておれは道楽者だ。陣中の抽斗には、諸方の師団長から送られた美人の写真や、それいろいろの女の絵があるぢやらう。それを人に見られると、後で具合が悪いよ。何枚も何枚も紙に丁寧に包んで、上に墨黒く陣中御守と書いた。そして、その横に、明けて見たやつは目がつぶれるぞ、と書いて置いた。

将軍 ははははは。(思はず吹き出し)何処までもおぬしぢやなう。ははははは。

児玉 ははははは、然し、安心した。貴公も二百三高地占領の重要を認めてくれれば、わしの意見が完全に裏書されたものぢや。

将軍 児玉。今更ら繰言めくが、この戦争で経験した最大の苦痛は、要塞戦には敵の屍を見られないといふことだ。見る死骸も死骸も、みな味方の死骸だ。敵軍の損傷も損害も、全く見ることが出来ないで、味方の損害惨敗のみを見なければならない。恐らく戦争のうちで、要塞戦ほど残酷に無残なものはない。

児玉 深くその点は、同情してゐる。

将軍 おれが二百三高地に全力をそそぐ考へを起したのは、おれ自身旅順要塞の中を見たいのだ。将校士卒等にも一目見せたい―見せて死なしたいのだ。

 真山は、資料博捜が完璧な事で識られていた。真山の助手から碩学と呼ばれる学者が二人も出ている。

以降 vol.7 へ。

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら