乃木希典 vol.5

旅順の二〇三高地に立つ。その「壁」を前に言葉を失った

vol.4 「ドイツ留学で放蕩から一変。香川での第十一師団長時代」はこちらをご覧ください。

 こんなに急なのか・・・。

 二〇三高地の麓から、頂上を見上げた。

 坂、というものではない。

 斜面というより、直立している。

 壁・・・。

 旅順は、長い間、立ち入り禁止区域だった。

 云うまでもなく、中国東北部で、最大の軍港があるからだ。

 清国の北洋艦隊の基地として生まれ、日清戦争の後、三国干渉を経てロシアが租借して整備し、日露戦争の後、日本の軍港となり、第二次世界大戦後、再び中国の手に戻った港。

二〇三高地頂上に乃木が建てた慰霊塔。「爾霊山」と名前は203の当て字で乃木が考案した

 そこを訪ねる事が出来たのは、折からの改革開放の気運から、観光地として公開されるようになったからである。

 それは、以前の、石原莞爾についての取材のための旅行の時であった。

 ハルピンから空路、大連に戻った際、帰国前日に訪問が叶ったのである。

 というのも、観光施設として公開されるようになったものの、港内に機密性が高い船舶などが入港している時は、即刻立ち入り禁止になってしまうので、旅行会社の側でも、メニューとしては設定しがたい、観光の目玉としては設定しにくい性格の場所だったのである。

 実際、あるツアーに参加していた日本人男性が、知り合いの中国人女性と、旅順要塞の近くにいった事が露見し、当該の男性だけでなく、旅順にまったく足を踏み入れていない、同行のツアー客全員が、拘束された上、すべての写真を取り上げられた事もあったそうな(同行してくれた編集者は、いくら中国でも、そこまでしないだろう、と云った。

 ツアー客の統制をとるための、作り話ではないか、と。勘ぐればきりがないが、ここしばらくの中国のやり口を見ていると、そう考えるのは筋が通っているかもしれない)。

『坂の上の雲』への福田恆存の批判

 訪れる事の出来た二〇三高地は、観光地としての整備はまだまだ緒についたばかり、という印象だった。

 バスの駐車場は、半分しかアスファルトが敷かれていなかった。

 駐車場から、要塞への通路は、屋根がまだ出来ておらず、骨組みが雨ざらしになっている状況だ。

 その麓に立ってみると、ただ、ただ、戦慄するばかりだった。

 映画などで描かれる、二〇三高地攻防戦は、日本兵が、なだらかな斜面を走ってきて、ロシア側の機関銃に掃射される、というようなものだ。

 けれど、実際の二〇三高地は、前述したように、「坂」でなくて、「壁」なのである。

 この急斜面を、三〇式歩兵銃を抱えて、突撃していったのか・・・。

 そう思うと、身中に残るのは、戦慄のみである。

 実際に、ロシアが構築した陣地に入ってみると、その精巧、重厚に圧倒される。言葉も出ない。

 コンクリートの厚みは、トーチカの最上部で、二メートル以上に及ぶのだ。

 そこに、銃剣を抱えて突撃した、明治の日本人・・・。

 その姿を想像するだに、言葉が、表現が、枯れ萎まざるをえない。

 そして、最終的に、肉弾をもってこの要塞を陥落させたのであった。

 今日、なお、二〇三高地の頂上には、乃木が建立した「爾霊山」と題した慰霊塔が建っている。

   ∴

 乃木にとって、旅順は因縁の地である。

 日清戦争においても、乃木は旅順で戦った。

 この時、一般市民虐殺事件が起こったとの報道が海外であり、元祖スーパー官僚、伊東巳代治が火消しに奔走し、成功した挿話は、明治外交史の一幕として語り草になっている。

 日清戦争当時、旅順には要塞らしい要塞はなかったが、乃木軍の攻撃により、旅順港の防禦には、高地の要塞化が不可欠だという認識を、各国の軍事関係者が持ち、三国干渉後、ロシアが、要塞化に着手したのである。

 日露開戦に際して、陸軍の作戦には旅順要塞の攻略は含まれていなかった。

 ロシア艦隊の排除による制海権の維持を至上課題としていた海軍の要請により、副次的任務として、組み入れられたのである。

 その「副次的」任務が、日露戦争、最大の出血を強いられる場となった。

 この点について司令官である乃木の責任が重い事は云う迄もない。

 乃木本人が、誰よりもその重さを認識していたであろうし、「殉死」という最期も、そこから演繹されざるをえないものだろう。

 とはいえ、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を典型とする、乃木愚将論が正当だとは、到底云えないとも思う。

 司馬の著作にたいしては、福田恆存が、『坂の上の雲』公刊当時、辛辣にして行き届いた批判をしている。

「ベトンの強靱な防禦力、敵の優秀な兵器や物質的な優越、さういふものを一切知る事無く、或は敢へて無視して、無謀にも等しい反撃を強行した、その事の可否善悪を別として、それはそのまま当時のヨーロッパ列強に対し背伸びして力を競はうとする明治の日本の苦しい姿勢を物語るものです。

 乃木将軍が日本の『象徴』なら、旅順の要塞はヨーロッパ列強の『象徴』と言へませう。それでまた憶出しましたが、あの取附く島もない山肌の硬さやベトンの厚みと同時に、白玉山陳列館で見た日本軍の貧寒な肋骨服と対比してロシア軍将校の豪華な毛皮の外套が、それこそ『象徴的』にこの目に映じたものです」(『乃木将軍と旅順攻略戦』)

 福田の議論は、「近代日本の弱さ」を愛せ、という一事に尽きている。

 極東の島国が、ごく短期間に近代化を成し遂げ、列強の一角に入り、植民地化されずに独立を維持した事。そのために重ねざるをえなかった無理に、同情と共感、そして敬意を、少なくとも日本人だけは、傾けてもよいのではないか、と。

以降 vol.6 へ。

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